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 ふいに、ヴィンセントは棺桶の中で目を覚ました。
 何の予兆もなく唐突に目が覚めることは彼にとって珍しいことではなかった。再びまぶたを閉じて眠りにつくのが常だったが、まれにそのまま起きていようという気になることがあった。それは外の空気を吸ってみたいとか、棺桶という狭苦しい寝床から出て足を伸ばしてみたいとか、他愛ない理由からだった。地下にとどまっているぶんには問題はない(彼は自分の背負った罪に対して、眠り続けることで償わなければならないという強い義務感があった)のだ。今回もそういった気まぐれから棺桶の蓋を持ち上げると、湿気が混じった、それでいてひやりとした 空気が部屋の中には漂っていた。今は夜か、もしくは真夜中の時間帯らしい、と彼は推測した。窓のない部屋では当然のことだが、太陽の光を見ることができない。仄かな月光すらも、ここにとどまっている限りけして差し込んでくることはなかった。
 ヴィンセントはなんとなく肩を回した。際限ないように思える眠りから目覚めたばかりの、ひときわぼんやりとした頭は、明瞭な感覚を取り戻すのに余分な時間を必要とした。どこからか微かにピアノの音が聞こえてきていた。そこで彼はようやく、いつもと状況が違っていることに気付いた。
 誰かがカセットテープでも持ってきて音楽を聞いているのだろうか、そしてその誰かは、普段から音楽など聞くような性格だっただろうか。わざわざこんな廃屋に足を運ぶような物好きは彼の知る限りでは一人だけだ。上から漏れてくる細やかな音は、天井を隔てているからか、ひどく危うげで途切れがちに聞こえた。その旋律までは聞き取ることはできなかった。男は上階のどこかにいて、埃にまみれた薄汚いソファに身を沈めながら静かにその曲を聴いているのであろうか。その姿を想像すると、なんとも哀愁じみていて、過ぎ去っていった彼らの年月を思い起こさせるものがあった。ヴィンセントは自然な微笑を漏らした。
 いつの間にかピアノの音は途切れていたが、しばらくすると再び聞こえ始めた。やはり音は断片的で、一曲としての全体像までは聞き取れない。ヴィンセントは地下室から足を踏み出していた。無意識的な行動だった。ピアノの音に引き寄せられ、ゆっくりとした足取りで螺旋階段を上る。一歩踏みしめる度に、その旋律がはっきりと形作られていくように思えた。そして、廃屋に響いているピアノはレコードされたものではなく、生身の音なのだということが即座にわかった。一人の人間の手によって発せられる微妙な音の強弱は、平淡になっていた彼の感情を大きく波立てる。地上に近づくごとにピアノはそのボリュームを増し、彼の心はおどった。
 ヴィンセントの記憶どおり、2階の奥まった部屋にそれは設置されていた。年季の入っていそうなアップライト・ピアノだったのだ。当初神羅がこの廃屋(当時は廃屋ではなかったが)を利用する際に撤去される予定だったのが、持ち主の強い要望で、ピアノだけはそのままになっていると聞いたことがあった。そうはいっても、仕事の邪魔になるのでずっと放置されたままだった。おそらくは、そうだろう。研究チームの中に演奏できる者が一人くらいいたとしても、結局、その細やかで美しい音が聞こえてくることは一度だってなかったのだから。
 薄く開いていたドアを静かに開けた。散髪もせず伸びた襟足、使い込まれてよれよれになった白衣の男が背を向けて鍵盤を叩いていた。実際に演奏されるピアノの音は意外にも大音量なのだ。特にこそこそしているつもりはなかったが彼はヴィンセントの存在に気づいていない、あるいは気付いていながら黙々とピアノを弾いているらしかった。
 ヴィンセントは壁に背をもたせかけた。宝条が弾いているのはノクターンのいずれかの曲の一部のようだった。ヴィンセントには音楽の素養はなかったが古典的な作曲家と曲名くらいは知っている。先ほどから繰り返し聞こえてくるこの曲調は、穏やかで流麗な時間が流れる夜を思わせた。われわれの夜には合わない曲だとヴィンセントは思った。と同時に、鍵盤を叩く手が止まり、演奏は糸が切れたように中途半端なところで終わってしまった。
 やがて宝条は思い返したように右手を鍵盤の上に置き直したが、そのまま静止した。時が止まったような瞬間が暫し訪れた。そして次の瞬間、ヴィンセントは口火を切っていた。
「もう弾かないのか」
「……いると思わなかったのでね、きみが」
「悪かったな」
 ヴィンセントは肩を竦めた。宝条は鍵盤を見つめたままだった。弾くのをやめた今でも、演奏に夢中になっているときも、この男は猫背だった。ピアノに限らないが楽器を演奏する時は曲がった姿勢は望ましくないのではなかっただろうか、という思いがヴィンセントの脳裏を掠めた。そんな姿勢でよくここまで演奏ができたものだ。
「それ以外にレパートリーはないのか」
「きみが私の演奏を聴きたがる物好きだったとはね。眠っているんじゃなかったのか」
「音楽なんてもうずっと聞いていなかったから、つい……。とにかく、それ以外に弾かないのか」
「私が弾くものは私が決めることだ。きみに口出しされる言われはないな」
 宝条は相も変わらず利己的で、人当たりの悪い男だ。その性格に似合わぬ繊細で長い指が鍵盤を叩き、繊細で美しい音が形成されていく。滑稽な光景だった。そもそも彼がピアノを弾くなんて考えてもみなかったことだったのだ。ヴィンセントはその意外性に、少し浮ついた心地であった。
「わかったよ。何も言わない」
 だが、ここであんたの演奏を聴くくらいは許されるはずだろう、とヴィンセントは言って、再び壁に背を預けた。宝条は眉根を寄せた顔で振り返りそのさまを一瞥したが、すぐにピアノに向き直った。小さく息を吸う音が聞こえた。宝条は再び鍵盤上の手を動かし始めた。
 聞き覚えのある旋律だった。厳かで、どこか物悲しいしじまを思い起こさせた。――"月光"か。ヴィンセントは顔をうつむかせた。宝条はこれまでと変わらず、やや曲がった背中で機械的に指を動かし続けていた。背中にちょうど窓からの淡い光が当たって、彼の手の青白さと白衣の白さをより際立たせていた。そしてそれすらもヴィンセントをどうしようもなく物悲しい気持ちにさせる要因となった。
 1楽章のみを弾き終わると、宝条は休憩がてら手を組んで腕を伸ばした。
「なぜ、そんな顔をするんだ」
「宝条……。あんたは、もっと感情を込めて弾くことはできないのか」
「悪かったな。私には音楽的センスがないものでね」科学者は、ヴィンセントを真似るように肩を竦めた。「そういうことは期待しないでくれよ」
 涙を流す前兆のように、喉と胸の間の辺りがつかえていた。なぜそうなるのか明確な理由はヴィンセントにはわからなかった。気を張っていなければ泣きだしてしまいそうになるのを気取られぬように声を出したつもりだったが、やはり表情に出てしまっていたらしい。科学者の演奏は、ただ楽譜をなぞっているだけだった。どこまでも淡々とした印象を与えた。その無機的な運指はある種の残忍ささえ感じられた。ヴィンセントが苦しげなのは、物悲しい曲調のせいではなかった。
 この男の手は、何をする時も同じなのだ。ピアノを弾くときも、マウスを解剖するときも、薬を注射するときも。――人を殺すときも。
 彼は同じ残忍さでやってのけるだろう。そう考えると、ヴィンセントは目の前の男の演奏からひどく逃げ出したい気持ちに駆られたが、立ち去ることはできなかった。曲目は「別れの曲」だった。美しく優しげなメロディのせいか、弾いている男の手からも本来存在しない優しさが感じられるような気がしていた。美しく、優しく、どこか狂気的だった。そして切なかった。
 弾き終わると、宝条はできるだけ静かにピアノの蓋を閉め、椅子から立ち上がった。
「……泣いてるのか」
 ヴィンセントは返事ができなかった。嗚咽がせり出してきそうだったし、意外そうに発せられた言葉は、宝条の声とは思えないほどに優しかったからだ。
「もう寝るよ。おやすみ」
 背伸びをして触れられた唇の感触は、これまでにないほどに暖かくやわらかだった。そんなふうに感じるキスは、最初で最後なのだろうとヴィンセントは確信していた。
 だから彼は、もう一度涙を流した。




博士がピアノを弾く話を何年も前から書いてみたかった。とても気に入っています。でも恥ずかしいのでこっちに収納。