鼓動



 宝条が、ヴィンセントを好きなのではないか。
 ルクレツィアは、はっきり口には出さなかったが、ずっとそう感じていた。
 宝条とは、たまに口喧嘩はするものの、良好な関係を築いていると彼女は思っていた。彼女は宝条を愛しているし、支えたいと思う気持ちは変わらない。彼の愛情のこもった腕に抱きしめられるより他に充足感はなかったし、あわよくばこのまま結婚して家庭を築いていければいいとさえ思っていた。
 当たり前に続いていくと思っていた生活に陰りが見え始めたのは、いつからだったのか。考えれば考えるほどに、彼らの間に生じた亀裂はごく最近のものではないような気がしてならなかった。見えない所で生じた罅は、毛細血管を辿るように大きく成長していき、そのうちにごく僅かな衝撃でバラバラに砕けてしまうのではないかと思われた。
 彼に直接聞き出してみようか、という試みはいつも寸前で出かかって飲み込まれた。それが事実だったとして、彼が正直に言ってくれるとはとても思えなかったし、宝条が彼自身の気持ちに気付いているかさえも怪しいのだ。彼女が気付き始めたところでルクレツィアを包み込むあたたかな体温に変わりはなく、夜が更ければ当然のようにセックスをして、朝になれば出勤する前にキスをする。彼女への態度は同じだったが、ヴィンセントへ向けられる視線だけが日に日に違ってきていた。どこか妬ましいような、後ろめたい目つきだった。彼がヴィンセントに出会ったばかりの頃は、さほど興味もなげに、仕方なく視界に入れている感じがしたのに、ここ数ヶ月前から、いつの間にか宝条の暗い目線は無意識的にタークスの姿を追っているのだ。役職も、住んでいる世界も、何もかもが彼とは違うヴィンセントをなぜそんな目で見るのか、ルクレツィアにはわからなかった。興味が湧いたふうでもない、ただただ彼のことを気にしている。ぼんやりと黒い背中を凝視している宝条に声をかけると、我に返ったような顔をして、やっとルクレツィアの存在に気が付く有り様だ。
 どうしてそんなに彼を見るの。彼のことが気になるの。
 シーツを被って温かい腕に抱かれている間、ルクレツィアは口腔内だけでその疑問を反芻した。声にすることはできなかったし、これからも口には出さないだろう。じっとりと重いものを胃の辺りに感じながら、彼女は宝条の呼吸と心臓の音を聞いた。何事もないように穏やかで規則正しい音だった。
 もし宝条が彼のことを――性愛対象として見ていたしても――自分にはどうすることもできないだろう、と彼女は思った。また宝条がその気持ちを自覚したとしても、彼はその感情を持て余すしかないのだろう、とも推測した。自分たちの日常生活は一見変わらない。ただ、自分たちの間には肉眼では見ることができないほどの小さな亀裂が広がっていくだけだ。その想像は、彼女の将来を絶望的に暗くさせ、今までに作り上げてきた確かな足場が不意に削れて震動しているような気分にさせた。当人が文字通り目の前にいるというのに、泣きだしたい気持ちになった。
 明日の仕事に影響しないように、と祈るだけで彼女は精一杯だった。
 彼らを惹きつけるものは、男女同士の情愛とは違うのだろう。もっと生々しく、不透明なもの――。