視線



 背後から自分を見つめる視線に、ヴィンセントは気付かないふりをしながら煙草に火をつけた。
 眼鏡越しのその粘着質な視線は彼の背中の辺りを少しの間さまよった後、再び定位置に戻った。
 書類を繰っているふりをしながら、自分が近くにいるというだけでその作業に身が入らず、時々こちらを凝視してしまうことを彼は知っている。
 ヴィンセントは、故意にその場に居合わせて自分に気がある相手の反応を観察して楽しむなどという歪んだ性質を持っているわけではない。仕事柄、彼らの近くにいなくてはならなかった。外部とのトラブルから彼らの身を守ったり、彼らの中に不審な動きを見せている者がいないか、常に目を光らせる必要があった。
 たとえ自分が見たくない光景であっても目を瞑らないわけにはいかない。彼らが同僚として事務的なやり取りをしている間はいいが、ヴィンセントが恋愛感情を抱いてしまった異性が、その交際相手と仲睦まじくしているのを見るのはあまり気持ちのいいものではない。意を決した告白に玉砕し、一度は諦めてただ彼女の幸福を願うことに徹しようとした。そう簡単には割り切れなかった。実際は、科学者同士という同業の二人が、ヴィンセントが理解できない専門的な会話をしているというだけで黒々とした気持ちが湧出してくるのだ。
 決して簡単な気持ちでこの任務を引き受けたわけではない。しかしこの日常は、今となっては当初の彼が思い描いていたものとは全く異なる方面での苦痛さを伴ってしまっていた。
 ヴィンセントの告白を丁重に断ってから数日の間、ルクレツィアはさすがに気まずそうにしていたが、しばらくすると彼の存在に慣れてしまったらしい。彼女の出身地方特有の堂々たる態度で、交際相手である宝条にちょっかいを出すのは日常茶飯事と化している。宝条も最初こそは拒否の素振りを見せていたが、今では諦めたのか満更でもないと思っているのか人目を憚らずに恋人とスキンシップを取ることに躊躇しなくなった。どちらもヴィンセントをただの背景同様の存在としか認識していない――彼にとってはその方がやりやすかったし、下手に気を使われることによって気疲れせずに済むのだが、やはり自分がいる所で仲の良さを見せつけられると暗澹たる気持ちになるのは避けられなかった。
 しかし、近頃(といっても、ずっと以前からその兆候は感じていたのだが)その状況が変わり始めたことをヴィンセントは自覚している。
 煙草の灰を落とし、灰皿に火種をもみ消しても、ちらちらと感じるこちらを盗み見るような気配に変わりはなかった。不快な視線だった。そのくせ、ひどい近眼持ちである彼の裸眼でもはっきり見えるような距離に近付いて、無理やり目を合わせてやったところで熊にでも出くわしたように瞬時に目を逸らされるのだ。わけがわからない、と心の中で悪態をつきながら、彼は宝条など視界に入らないようなふりをして休憩室を後にした。

 勤務終了時間を過ぎたところで宿屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに身を横たえた。本社勤務の頃に比べて休みはきちんと取れているのに、どういうわけか、日頃の疲れが取れずにいる。こちらに赴任してくる以前に課されていた仕事内容を思えば、この環境はそれほど過酷ではないはずだった。休暇のつもりでのんびりすればいい。主任はそんな言葉すら交えながら指令書をヴィンセントに渡したのだった。戦いや騙し合いに身を投じる必要性に迫られない。そんな生活は少年時代以来のことだった。だから気が緩んでしまったのかもしれない。タークスという身分である自分が、人並みに恋愛感情を持ってしまったことを、彼は今までの人生の中で最大の汚点であるかのように、激しく後悔した。
 ルクレツィアが宝条に愛想を尽かし、自分のところへ来る、という夢を、ヴィンセントは何度もみるようになった。艶めいて美しい栗色の髪、やわらかい乳房、形のいい唇。それは生々しい現実感を伴って彼の浅い眠りの中へ、悪びれもなく侵入する。夢から覚めると少しの間は身悶えするような歓喜に包まれているが、やがて薄暗く冷たい空気が彼の肌を刺してくると、ヴィンセントは後ろめたい気持ちと共にどうしようもない現実を、未だ彼女のことを諦めきれていない自分を認識するのだった。彼はもはや無意識とも言えないレベルで表層化した俗物的な願望を恥じずにはいられなかった。そうして今日も彼らの行動を監視する影にならねばならない。そのことを思うと、憂鬱とまではいかないがどんよりとした暗雲が彼の胸中に立ち籠めた。
「昨日ね、彼と宅飲みしてて――」最近のルクレツィアにとってヴィンセントの存在は、ただの護衛から、なんでも話せる友人にランクアップしたらしい。のろけを聞かされると彼は愛想笑いで応じるしかなくなるのだが、彼女はお構いなしであった。
「まあ、当然のように一緒のベッドで寝たわけだけど」ヴィンセントは気付かれないよう唾を飲み込んだ。彼女はそのうち恋人との猥談まで恥ずかしげもなく自分に暴露してしまうのではないかと思われた。「そのまま寝落ちしちゃったのよ。珍しく。隣に私が寝てるのに何にもなしよ。疲れてたのかな、って思ったけど」
 ヴィンセントは心の中でひっそりと安堵した。今更他人のそんな話にいちいち反応してしまうほどウブではないのだがルクレツィアとなれば話は別だった。
「でも、最近なんとなく、変よね。あの人」ルクレツィアは不安げに首を傾げた。「彼、どうしちゃったのかしら」
 ヴィンセントはぎくりとした。どういうわけか、それは自分に原因があるようにも思われたからだ。一瞬迷った後、彼は答えた。
「たまにはそんなこともあるさ……誰だって、いつでも普通の状態でいられるわけじゃない」
「じゃあ、やっぱり疲れてるのかしら」
「そうだろう、きっと」
 ヴィンセントはきっぱりと断定した。もちろん、他人である宝条の精神状態を把握しているわけではない。これ以上彼のあいまいな話を続けられることに不快感と、朧げな危機感をもよおしたからだった。ルクレツィアはそのことを知ってか知らずか、おずおずとヴィンセントから離れていった。そうよね、そういうこともあるわよね、と釈然としないことを噛み砕くように彼女自身に言い聞かせながら。
 ルクレツィアは科学的センスも持ち合わせていたが、それ以上に勘の良い女だった。宝条と一緒にいる時間が多い彼女に、宝条の異変がわからないはずがなかった。おそらく彼女は宝条の気持ちに半ば気付いている。だから、それとなくヴィンセントに原因を聞き出そうとしたのだ。彼女は恐れを抱いている。自分の予想がただの杞憂であればいいと思っている。その恐れが現実になってしまうことを最も恐れている……。
 ヴィンセントには、何度かルクレツィアに相談を持ちかけられながら、彼女の疑念が痛ましいほどに理解できた。そしてその都度彼女を宥めすかすのに苦心していた。ヴィンセント自身が最もわかっていたことだからだ。
 事務的な話であってさえ宝条に声をかけると、彼が不自然に顔を強張らせるのも、時々震えた声で返事をするのも、ちらちらとまとわりつく視線を投げかけられるのも。
 不愉快極まりない予感だった。自分は有耶無耶でよかったが、彼女のためにいつまでも放っておくことはできなかった。
 ヴィンセントは、近々彼らが婚約するという話をガストから耳にした。ガストはそんな話題を繰り出しながら微笑ましげに両目を細めていたが、ヴィンセントの危機感は瞬時に膨れ上がった。
 自分で確かめなくてはならない。もしこの杞憂が事実であれば、どうにかして彼を諦めさせなくてはならない。
 ヴィンセントは、彼の核の部分から膨張してくるような悪寒を噛み締めながら、その夜、宝条が泊まっている仮眠室のドアを叩いた。




文体がそこはかとなく大江健三郎調(すみません個人的にブームだったんです)