35回目の誕生日




 久しぶりに食事をした。地下から抜けだしたのも実に久しぶりだった。その日一日の身体検査やら投薬調整やらが終わったので棺桶に戻ろうとすると、珍しく宝条に呼び止められたのだった。
「何か食べたくはないか?」
 他意は感じさせない声だった。しかし彼はわたしに気を使うような発言は一切しない男だ。わたしは一瞬呆気にとられたが、何か裏があるなと思い直しすぐに怪訝な目を彼に向けた。銀縁の眼鏡の奥の目つきはやはり勝手な憶測を許さない淀みがあった。
「いや……なにも」
「そう言わずにちょっと付き合ってくれよ」
 実際腹は空いてなかった。このいまわしい身体になってから食欲というのがどんなものなのか忘れてしまっていたくらいだ。わたしも彼も、栄養になりさえすれば形式も味も何であろうがかまわないという性質だが、この廃屋のように埃っぽく不潔さが拭い切れない場所ではさすがに食欲も湧かなくて当然だろうと思う。宝条は最初からわたしの声に耳を貸す気はなかったらしく、強引に手を引いてわたしを地上へ連れだした。滅菌手袋を嵌めたままの彼の手は固かった。
 気がつくとわたしたちは部屋の中にいた。中央に小さなテーブルがあり周りじゅうを植物に囲まれた部屋だった。この廃屋が研究施設として使われていた頃から変わらない光景だった。他の部屋は壁紙が黒ずんで木製の家具が傷んだりしているのに、この部屋だけは当時から同じだった。宝条が植物に加工をして枯れにくくしたばかりか、まめに廃屋に通ってきてはわたしの様子をみるついでに世話をしているので(ときどき実験に使うらしい)、なんとか枯らさずに残っているのだ。そういう話は彼から聞いていたが、ここまで見事に管理しているとは思わなかった。もちろん、中には枯れてしまった花もあるようだが大半の鉢には生き生きとした緑色の姿があった。わたしは思わず感心してしまった。
 宝条はテーブルのゴミを払うと、小型のスーツケースからウイスキーを取り出した。それからは実に色んな物がでてきた。ラップに包まれたチーズケーキ、一切形の崩れていないショートケーキ、モンブラン、ブラウニー、タッパーに入ったローストビーフ、コールスローサラダ。そして極めつけにオレンジがまるまる一個、テーブルに置かれた。
「誕生日おめでとう、ヴィンセント」
 一瞬、言われた言葉の意味がわからず宝条の顔を見つめた。彼はそのはっきりとした口元に微笑すら浮かべていた。わたしはテーブルに置かれたものと、周りの植物とに視点を移し、また彼の方を見遣った。
 宝条は何気ないふうに椅子に座ると、足を組んでまたこちらを見た。彼に誕生日を祝われるのもそんなに優しげな微笑みを彼女以外に見せるのも初めてだったのでひどく戸惑った。そもそもわたしは自分の誕生日がいつだったのかさえ思い出せなかった。
「10月13日で合っていたかね。あの年から逆算すると今年で35歳だな」
 嘆くでも歓喜するでもなく、彼は淡々と「我々ももう人生の曲がり角だな」などと肩をすくめている。どう反応するべきなのか皆目わからなかった。わたしは仕方なく彼の向かい側の椅子に座った。あまり座り心地の良い椅子とは言えなかった。
「食べようじゃないか。あまり放置していると、虫がわく」宝条はどこからか持ってきていたグラスにウイスキーを注いだ。「私は甘いものが苦手だからケーキ類は君にあげるよ」
 でもそのチーズケーキは食べるから手を付けないように、と彼は付け足してわたしのグラスにもウイスキーを注いだ。
 これほどの食べ物を目の前にしてもやはり食欲は感じられなかった。わたしも甘いものが特別好きというわけではないのだ。ただ彼の真意が知りたかった。手持ち無沙汰で、飾り気のない小さなフォークをショートケーキに突き立てた。気のせいか甘い匂いが強まった。
「宝条……。なぜ、突然こんなことを思いついたんだ」
「これほどの長い付き合いだからな。ささやかながらたまには私から祝っておこうと思って」
「それだけか?」
「それだけだ」
 質問に答えた彼の目に嘘はなかった……ように思えた。なんとなく居た堪れなくなり彼から視線を逸らした。植木鉢のスズランが、白い花をもたげていた。
 しばらく食器のぶつかる音だけが響いた。やはり彼がこのような突飛なことを計画したほんとうの理由が気になって仕様がなかった。ほんとうの理由など、ほんとうにないのかもしれないが。宝条はそういう男だ。宝条はいつの間にか食器を動かす手を止めてわたしを観察し始めていた。彼の皿のものは減っていたが、薄い微笑みだけは消えることなく彼の唇に残っていた。観察癖は毎度のことだが見られていると余計に居心地が悪い。モンブランの切れ端を口内に入れ、ウイスキーで流し込んだ。植木鉢の土臭さと、クリーム生地の甘さが混ざって不快だった。
「何を贈ろうかと考えたんだが、何も残ってなくてね」
 宝条が唐突に口を開いた。
「どういうことだ?」
「今の君が所有しているもののほとんどは、私がかつて君にくれてやったものだろう」
「その服も、その身体も、その赤い瞳も、その罪と罰も、その絶望も」
 わたしは吐き戻しそうになるのを堪えながら、淡々とケーキを胃に押し込み続けた。焼けつくような甘さと植物の強い匂いに目眩を引き起こしそうだった。元々アルコールに強い方ではなかったのにウイスキーは体内で次々と分解されどれだけ飲んでもただの苦い水のようだった。
 少食な宝条にしては珍しく、彼の皿に盛り付けられた食べ物はもう少しで完食しそうなほどに減っていた。
 彼の微笑は崩されることはなく、いつまでも綺麗なまま保たれていた。





2013年、ヴィンセントの誕生日に。ただの嫌がらせ
都合上ここだけヴィンセントは改造で赤目になったことにしてますが元々は博士と同じ黒だったってのも萌えます