地下室と矛盾




 なにか言いようのない寝苦しさを感じて、ヴィンセントは目を開けた。むっとするような湿っぽさが立ち込めているのだった。といっても黴臭い地下室は年中湿っぽさが漂うのだが、彼が平生感じている空気とは違う種の、鬱陶しくなるような湿気であった。
 悪夢の質も以前よりレベルが上がっているとみえて、額の辺りにじんわりといやな汗をかいている。動悸がやや激しかった。ヴィンセントは背中を丸め、膝を折り曲げて、つかえるような苦しみに耐えた。
 厳密にはいつもの地下室ではない。屋敷の奥まったところに配置された研究室の一室であって、申し訳程度の無影燈と手術台が設置されている。ヴィンセントは、牢獄を連想させるあの部屋の棺桶の中で眠っていたつもりが、いつの間にかここに寝かされていたのだった。もっとも似たような経験が過去になかったわけではないので、彼はさほど狼狽えなかった。
「お目覚めかね」
 向こうから声がしてヴィンセントは億劫げに顔を上げた。壁際に置かれた作業机に付属した回転椅子に科学者が座っていた。薄闇の中で何らかの書類に目を通していたらしく電気スタンドがぽうと明かりを放っている。
「苦しいんだ」
 声帯を動かすのはひどく久し振りだった。細い声が、ヴィンセントの口腔内に低く響いた。先ほど口の中だけで発した声は科学者には届いていないかもしれなかったが、それでもかまわなかった。悪夢から醒めたばかりの彼の思考は虚ろで、自分自身のことすらあまり考えられなかった。自分以外に人がいようがいまいが責めさいなむような苦悩は同じなのだ。そうなると再び眠るほかにない。眠るにしても、それは過去の映像を繰り返し再生される悪夢に身を投じるという選択である。
 どう行動するにしても、いまわしい思い出と後悔は彼をついて回った。苦しみの無間地獄だ。しかし現在の彼ともなると、地獄という自覚は無いも同然だった。それは客観的事実であって、彼の主観的な現実ではなかった。彼にとって与えられるべき当然の罰だと思ってもいた。最初の頃感じていた理不尽感とはもはや無縁で、今の彼は、苦しみに飼い慣らされたとでも言うべき状態かもしれない。
 ヴィンセントは折り曲げていた足を少し崩した。ふと気がつくと、ヴィンセントと向き合う形で、科学者が手術台に足を乗り出してきていた。
「今のきみの身体に、少し改良を加えてみた。苦しいのはそのためかもしれないな」
 科学者が膝立ちになった。
「そのうち、おさまると思うよ」
 冷徹な無表情がヴィンセントを見下ろしていた。反り返るように伸ばされた背筋さえもずいぶん蠱惑的だった。真上の無影燈にでも照らされていればまた違った印象を受けただろうが、薄闇と、研究室特有の資料臭さと、それから科学者自身の不気味な冷ややかさが、特有の妖しげな空気を醸成しているのだった。
 生ぬるく、それでいて骨ばった手がヴィンセントの両頬を包み込んだ。科学者が屈み込んだので、ヴィンセントは自ずと姿勢を崩し、半ば組み敷かれるような体勢になった。科学者の唇がヴィンセントのそれに触れた。やはり生ぬるい感触だった。どうしてこの男はここまで体温が低いのだろう、と彼は思った。まるで無機的な動きで科学者はヴィンセントを求めるのだった。求めるというよりは実験でもしているような気分なのだろう。そう推論すると、いくら相手が誘うような雰囲気を纏っているとはいえ、彼はもどかしさを覚えた。
 ヴィンセントは上体を起こし、科学者の細腰に手を回して身体を密着させ、口づけに応えた。腰骨が当たって居心地は悪かったが、それでも彼は執拗に舌同士を絡ませた。科学者の手がヴィンセントの背中に回され、スラックスの右足は手術台の外にずり落ちていった。
「どうした……。セックス、するのか」と科学者が言った。自分からけしかけておいて今更なんだ、とヴィンセントは憤慨した。口には出さなかった。
「いや……」
 熱のこもった息が吐かれた。しかしヴィンセントにはそれ以上先を進める気力は消失していた。というよりも、元からそんなつもりはなかったのだ。麻酔から覚醒したばかりの気怠さと、慢性化した抑うつ的な気分がそれを許さなかった。性的結合よりも、単なる触れ合いの方が、今の彼には重要だった。
「このままでいい」
 いくらか満足げに――あるいは意外そうに科学者の目が細められた。深淵を思わせる真っ黒な両眼はそのまま閉じられ、彼はヴィンセントに体重を預けた。伸びかけの髪がヴィンセントの肩に触れた。
 そういった体勢が、薄汚れた手術台の上でしばらくの間続いた。科学者は微動だにしなかった。息遣いはゆるやかで、眠っているのかもしれなかった。
 ヴィンセントは、科学者のことが急にいとおしく思えた。それは常日頃感じていた憎悪とあわれみの入り混じった黒黒とした感情ではなく、いくらか甘美な、男女同士の情愛にも似た想いだった。当然彼は、そういったものを持て余した。一般的な恋愛にも、友人同士の関係にもほど遠いというのに、そんなものが突発的に浮上するなど滑稽以外の何ものでもない。彼は笑い出したくなった。この男に触れている間だけは、胸につかえた塊が溶けていくような安堵すらおぼえるのだ。おそらく一時的な気の迷いだろう、と彼は判断するほかになかった。そしてやにわに自分が恐ろしくなった。とんでもない境地へ来てしまったような気がしていた。
 いつまでこんな状態が続くのだろう。ヴィンセントは科学者を支えながら思った。いつか、どちらかが終わりにしなければならないことだった。しかし彼らはかなり以前から話題に出すことを不自然に避けていた。どちらかが口にすれば、それは崩壊の始まりを意味していたからだ。ただ、そんなことを気にするのは、彼らしくもないし、自分らしくもない。
 結局、目前の問題は見て見ぬふりをして、ここに閉じこもるしかないのだろう。わたしにはそれしかないのだ。余計なことをして、科学者との間に再びいざこざが起こるのは最も避けたいことだった。今さら銃で撃たれようが身体を切り裂かれようが、もはや自己を捨てたも同然になっている彼にとってはどうでもいいことなのだが、なぜだか科学者の機嫌を大きく損ねることに対しては、激しい恐怖が残っていた。そうして一度殺されたときの記憶が、未だトラウマティックな印象を刻んでいるのかもしれない。記憶の波をただよいながら、ヴィンセントは、痩躯をそろそろと抱きしめ、更に密着した。矛盾している、と思った。白衣に染み付いて熟成されたような煙草の匂いが、彼の鼻腔を充満した。
 科学者は何も言わなかった。
 その晩、ヴィンセントは夢をみることはなかった。目が覚めてみるとそこにはただ、真っ暗い沼が広がっているばかりだった。その沼は底なしで、残骸すらも見えないほどの深層部まで沈んでしまっているのがわたしたちだ。再び浮かび上がることはあっても、沼から身体を引きずり上げることはしない。わたしたちは互いにほとんど何もせず、ただそぞろに深淵をただよっているだけだ。……
 彼はそうして暫しまどろんだあと、再び眠りの中に意識を投じた。
 普段通りの悪夢が、彼を迎え入れた。