Get Back




 ここに帰ってくるのは随分と久しかった。心地良い夜の闇に街灯がほの明るい光を放っている。マンションが立ち並ぶ住宅街の夜は閑散としているが、繁華街の方では眠らぬ少年少女や、夜勤と残業帰りのサラリーマン、そして良からぬ大人たちが今も闊歩していることだろう。改めて考えると、自分もその「良からぬ大人」の一人なのだが。長期間の任務で、それも血で自分の身体を汚して帰ってくるときなどの、言いようのないやるせなさ――罪悪感とはもはや呼べなくなってしまったそれを持て余し、アルコールと一緒に飲み下すのは毎度のことだった。そして、そんなことで気を紛らわすしかできない自分にもいい加減腹が立つのだが、考えるのも面倒くさくなってきているのも事実だった。消化不良だ。どうしてわたしはこんな仕事で給料をもらっているのだ。
 吐き気がこみ上げるような嫌悪感と気怠さと、実質的な身体の疲労は、タークスの足取りを重くさせた。最寄り駅から離れたところに位置している自宅すら鬱陶しく思えるほどだ。この職に就いて5年も経てばいい加減慣れはしないかと思うのだが、なかなかどうして、こういった任務の後はいやな苦味が口の中に広がるのだった。そしてその嫌な感じが、ピークに達しそうな彼の疲労感をまた増幅させる要因となるのだ。
 マンションに至るまでの長い道のりに、無感情な革靴の音が規則的に響いている。こういうとき、ヴィンセントはアルコールと食料以外のことは何も考えないようにしているが、今回に限っては違った。仕事先でヴィンセントが排除した(つまり殺した)相手の像が、いつまでも彼の頭の中に残っているのだった。
(なぜだ――)ヴィンセントは歩みを止めず、眉間を顰めた。無意識的に丸まった背中に覆い被さる背広がいつもよりも重く感じる。ターゲットとなった相手の残像が、血痕と共に衣服にこびりついているようだった。何も特別なことはなかった。マニュアル通りに事が進む戦闘などありはしないが、特に深刻な問題など起こらなかったはずなのに、どうしてこうも記憶が鮮烈に残存しているのだろうか。いつにも増して嫌な気分だ。自宅に着いたらさっさと寝るに越したことはない。制服の洗濯は業者に頼めばいい。
 だらだらといつまでも続きそうなエレベーターを降りて廊下を歩いて行き、角から一つ手前のドアがヴィンセントの部屋である。いつものように鍵穴にキーを差し込んで回したところで、彼は異変を感じた。
 鍵が開いている。
 条件反射で片手に銃を構えると同時に勢い良くドアを開けた。室内は明るかった。その上、見覚えのある白い男がソファにふんぞり返って我が物顔で新聞を読んでいた。
 ヴィンセントは呆気に取られた。構えた状態からそのまま右手を下ろした。白衣の男は冷静にタークスを一瞥し、何事もなかったかのようにまた新聞に視線を戻すのだった。
「……宝条」
 そうか、いつの間にかこの男に自宅の合鍵を作られていたのだったっけ、とヴィンセントは脱力した声で男の名を呼んだ。科学者は相変わらずの姿勢で新聞に目を通しており、こちらを再び見ることもしない。
「ずいぶん長い間留守にしていたな」
「おまえには、任務のことは言ってなかったはず……」
「早ければ今週中には帰ってくるだろうと主任のお告げがあったのでね」
 なんとも形容し難い、激しい歓喜のようなものが一気にこみ上げてくる。数ヶ月に渡る嫌な仕事が終わり、自宅で自分を待ってくれている存在がいるということが、どれほどありがたいか――ヴィンセントは改めてそれを痛感する。出かける以前はまあ散らかっていた部屋が、きっちり整理整頓されて心なしか空気も良くなっているようだ。
 ヴィンセントは宝条の手を引っ張り、立ち上がらせる。拒否される様子はなかった。そのまま抱き締め、ごく自然なキスをする。身体と身体が密着し合い、唇や舌が触れ合う合間に科学者の小さな喘ぎ声が漏れた。――3ヶ月ぶりだ。ヴィンセントは、科学者の感触でいっぱいになっている頭の片隅で思った。痩せぎすの、小さな身体は、ヴィンセントの長身にすっぽり収まっている。身体の中心部から熱が湧き上がるような心地だった。もはや誰のものとも言えぬ熱であった。立ってもいられないらしく、唇を離すと同時に、宝条はソファに沈み込んでしまった。押し殺した息遣いに、脳神経が火花を上げて炸裂しそうなくらいだ。
「宝条」
 科学者は顔を上げた。黒い双眸は潤って艶めいているようだった。いつの間にか手元から滑り落ちたらしい新聞紙がカーペットに転がっていた。
「なんだ」
「待ちきれない」
「ここで、するのか」
 当たり前だろう。それ以外に何がある。もう一度口付けながら、白衣を脱がしていく。宝条は、熱に浮かされたような表情で、ぼんやりと天井を見つめているだけだった。抵抗も、顔も顰めることもなく、ただ黙ってヴィンセントの行為を受け入れる。それだけのことが、ヴィンセントにはたまらなく愛しかった。今まさに興じている行為が、神聖なものであるかのようにも思えた。疲労と眠気は、既にどこかへ消えてしまっていた。
 科学者の身体は、どうしてか、格段に敏感になっているようだった。わずかな刺激で身体が震え、か細い声が漏れた。行為が進められる過程で伏せられた睫毛は濡れ、頬は全体的に薄桃色に染まってきていた。
 ふと、ヴィンセントの頭に考えが過ぎった。この男も、自分同様、再会を待ち侘びていたらしい。そうでなければ、こんなにも快楽に素直になることはありえないのだ。いつもならば、既に罵声のひとつも浴びせられているところだった。意地の悪い訊き方をしてみたくなったが、やめた。科学者が、心から彼を欲しがっているような表情で、ヴィンセントに手を伸ばしたからだ。酔いが回っているような、朦朧とした目付きではあったが、確かにヴィンセントの存在をとらえているのだ。ヴィンセントは、身体をより密着させ(そのとき上擦った声が上がった)、宝条の手のひらを強く握った。弱々しい力ではあったが、宝条はヴィンセントの手を握り返した。そうすることで、ただでさえ昂ぶる熱が共有され、より一層高まったかのように思えた。
 ずいぶんと長い間、彼らはそうしていた。やがて双方ともに精が放たれても、彼らは離れようとはせず、互いに恍惚の息を漏らすのみになっていた。緩く上下する腹部すら、ヴィンセントには愛しく思えた。
 やがて心地よい眠気が彼を包み込み始めた。再び戻ってきた疲労感と、性交後特有の身体の怠さが相俟っていたが、任務の後に決まってやってくる後味の悪い苦味は消え去ってしまっていた。強烈な生理的欲求に従って下がってくる瞼に抗いながら、ヴィンセントは朧気な思考を巡らせる。
(――声が、似ていた)
 ターゲットになっていた男の声は、宝条のそれに似ていたのだった。声、というよりも、抑揚の付け方と表した方が正しいのかもしれない。そう思うと、こじつけじみた科学者との類似点が次々と彼の回らない頭に思い浮かんだ。似ているから気になっていたとでもいうのだろうか。宝条とはまったく関係のない、赤の他人だったはずだ。ヴィンセントは心の中で自嘲した。自然にやわらかな笑みが漏れた。
(ばかばかしい)
 熱は落ち着いてきたものの、しこりのような妙な疼きは消えずに残存していた。つつましやかな呼吸が隣から聞こえてきた。ヴィンセントは、なんとなく科学者の耳元に口を寄せた。だからといって眠っている彼に何も言うことなど思いつかなかった。明日になれば、何事もなかったかのように支度をしてさっさと出勤するのだろう。ベッドの上で見せていた、とろけるような甘やかな表情が嘘のように、いつもの冷たい男に戻っていることだろう。それはヴィンセントにとって当然惜しいことであったから、この瞬間を逃したくはなかった。しかしその裏で、何ヶ月ぶりかの心地よさを味わいながら眠りにおちるのもいいかもしれない、と思っているのも事実だった。
 考えた結果、ヴィンセントは科学者をそっと抱き寄せて眠りについた。何も考えられなくなってしまうほど、ひどく幸せな感触だった。相手を包み込んでいるのはヴィンセントの方なのに、自分が包み込まれているような安堵感があった。なんだ。最初からこうすればよかったんじゃないか。彼は改めて自分の奥手に気付かされたが、溶けていくような眠気に侵食されると同時に、そんな些末事は意識の彼方へ飛んで行くのだった。

 
 ――そうして、彼らの夜は終わる。   





お誕生日おめでとうございます。 ('12.08.17.)