Grief





 季節性の雨が降り続いていたその日の夜にルクレツィアはいなくなった。
 研究員たちは前日に予定された作業をルーチンワークのようにこなしていくだけだった。彼女を失ったことで、作業室や職員の詰所には重苦しい空気が流れているように思えた。ガスト博士は責任を感じているようでもあったし、追い詰められていたルクレツィアに対して何もしなかったことをいくらか恥じているようにも見えた。
 どんなに悔やんだとしても、彼女はもう戻ってこないだろう。はっきりした根拠はないのに、私はそう確信していた。悲しげな顔でわたしや宝条に謝罪した博士に対して、そんな言葉を告げることはできなかった。
 昼休憩が終わり、作業や被験体の観察が再開されたときも職員たちはひっそりと静まり返っていた。淡々と指示を出すガスト博士の声や、赤ん坊の泣き声、事務的な会話以外の話し声は滅多に聞こえてこなかった。それは今日に始まったことではないような気さえした。職員たちの間の寂寞とした雰囲気は雨という天気のせいか、一際じっとりとわたしたちにまとわりついてくるのだった。
 仕事が終了する定時になると、職員たちは片付けの終わった者から順に屋敷を出て行った。宝条のことを気にかけたのは、最後に残った職員がわたしとガスト博士だけになったときだった。
 「彼はあまり感情を表に出さないから、参っているのかもしれない。もしそのようだったら何か声をかけてやってほしい」と博士に頼まれたのでわたしは宝条を探すことにした。しかし屋内のどこを見ても彼は見つからなかった。傘を差しながら外を歩きまわると、雨に濡れた植物の匂いが仄かに鼻孔を擽っていった。こんな天気だから村の住民のほとんどは家の中で過ごしているらしく、人の声は聞こえてこない。もっとも、誰かがささやかに話をしていたとしても、ここからの距離ではその声は雨音にかき消されてしまうだろう。
 あまりにも静かだった。それは彼女がもうここにはいないという事実と、もう二度と帰ってこないという暗示を、無慈悲に突きつけられているようだった。不意に泣きだしたい気持ちにとらわれたが、不思議なことに涙は流れてこなかった。ただどうにもし難い空虚感がそこにあるだけだった。宝条はどこへ行ってしまったのだろう。ルクレツィアを探しに行ったのだろうか。早くしないと日が暮れてしまう。
 案外簡単に、宝条は見つかった。屋敷の中庭で、岩に腰を下ろしていた。髪や服は既に水を吸いきってしまって見るからに寒々しかった。岩の上で両足を折り曲げた彼の姿は周りの風景に同化して消えてしまいそうなほど弱々しく、そして儚かった。声をかけるのも躊躇われたが、このまま風邪をひかれても困るので、わたしは宝条に近寄って傘を差してやった。
「何をやってるんだ」
「……何も」
 それだけ答えると、宝条はこちらを向くことさえしなかった。わたしにはそれ以上言葉が出てこなかった。彼は無表情に庭の一点を見つめていた。わたしは彼に傘を差したまま雨に濡れていった。背広が水分を吸って気持ち悪くまとわりついた。
「せめて屋内にいてくれないか。ガスト博士が心配していた」
 どれだけの時間が過ぎたのかわからなかったがやっとのことで出てきた言葉を搾りだした。我ながらデリカシーに欠ける言葉だと思ったけれど、それ以上に思慮深い言葉を掛けるような間柄でもない。気難しい宝条にとっては鬱陶しいとさえ思われそうだ。
「雨に打たれていたいんだ」相変わらずこちらを見ないまま、宝条が言った。病的なほどに白くなった頬を、雨粒が滑り落ちていった。
「宝条。あまり、わたしを困らせるな」
 宝条は黙っていた。返事をすることも億劫になったのかもしれない。そのまま岩から動かなくなった。多少なりとも世間とずれているとはいえ、宝条には年齢相応の落ち着きや考えもある。しかし妙に意固地になるような幼稚な部分も持ち合わせていた。それはプロジェクトが始まった頃からの付き合いで理解していたが、いい加減にうんざりだ。引きずってでも屋内に帰そうと動きかけた瞬間、彼は急に立ち上がった。スラックスや白衣についた泥を軽く払うと、宝条はわたしを見上げた。彼にはこれといった表情はなかったが、水滴だらけの眼鏡のせいで、座っていた間ずっと泣いていたのではないかと錯覚させられたのだった。
「……傘をもう一本持ってくるべきだった」

 中庭で宝条は何を考えていたのだろう。シャワーを浴びている間、そんな疑問ばかりが浮かんだ。失踪したルクレツィアのことを、彼はどう思っているのだろうか。そもそも、彼女はどうして鍵のかかった病室から抜け出すことができたのだろう。他に考えるべきことはあったはずなのに、熱いシャワーに打たれていると自然とそんな考えが頭の中を占拠していった。できればそのことは考えたくなかった。しかし、本社に送る報告書のことやこれからの仕事のことを考えると、どうしても彼らのことに行き着くのだ。堂堂巡りである。
 思考を続けることに疲れて、蛇口を閉めた。バスルームの戸を開けると、ずっしりと重い空虚感が再びわたしを襲った。
 ベッドでは先にシャワーを浴びた宝条が座って水を飲んでいた。目元にも口元にも、相変わらず表情というものがなかった。悲しみに沈んでいるわけでも自棄になっているわけでもない、ありのままの結果を受け入れている。それがわたしには奇妙に腹立たしかったが、すぐに虚脱感にかき消された。今ここでわたしと彼が争っても彼女は帰ってこない。
 彼女はもうここにはいない。
 宝条が独り言のようにそう呟いた。実際そのつもりだったのだろうし、彼自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
 それが聞こえた瞬間、とてつもない悲しみの衝動が襲ってきた。
 わたしは彼をベッドに押し倒した。
 抱かれている間、宝条は大人しかった。静かに与えられる快楽に、涙を浮かべもした。前戯の段階で、泣きたいのかと彼は尋ねた。正直に肯定の返事を返し、泣きたいのはあんたも同じじゃないのかとわたしは言った。
 「君なんかと一緒にするな」鼻で笑いながら宝条は私の肩に縋り付き、首筋を噛んだ。お互いだらだらとそんな行為を続け、余裕がなくなってくるとわたしは彼の内部に侵入した。それからはもう何も言わなかった。ただギシギシとベッドのスプリングが鳴り、時折小さな喘ぎ声がそれに混ざった。
 同類なのではないか、とわたしは思った。互いに相容れないと知りながら、なぜ彼はこんな傷の舐め合いのような事を許しているのだ。靄靄とした疑念が、底に溜まり始めた。射精して事が終わった後でもそれは溜まり続けて際限がなかった。
 わたしは彼と結合したまま、彼に深く口付けた。唇が離れると宝条はすぐに気を失うようにして眠った。どうにもやりきれない気持ちだった。わたしは眠ったままの宝条を犯した。不思議なことに、涙は一度も流れなかった。

 ややあって、わたしは彼に撃たれて肉体改造を受けた。その後もあいまいな関係は続いている。彼は数年に一度は何らかの発散を求めて会いに来る。その度わたしは自分の罪を自覚し、互いの傷を探り合う。
 しかし、わたしと彼の傷跡が癒えることは決して、ない。