廃屋と、獣と




 彼がそこに足を踏み入れたのは、久しぶりのことだった。どれだけの間放っておいたのか正確な数字にすることはできなかったが、10年はとうに経っていたかもしれない。とにかく長い間ここには来ていなかったのだ。門扉は以前よりも重苦しい塊となって彼を迎えた。もっとも、そう感じるのは彼が年をとったからというのもある。本社から通い始めた頃から、気がつけばずいぶんと長い時が過ぎ去っていった。まだ30代にもならなかった彼らは、今はもう老齢と形容されるべき年齢に足を踏み入れてしまっている。
 年季の入った音をたてて門扉が閉まった。途端に凍てついた静寂が彼だけでなく建物全体を包み込んだ。黴が繁殖した壁から放たれるすえた臭気を含め、独特のにおいすら漂っていた。実を言うと、彼はこの廃屋が好きになっていた。好き、というよりも愛着といった方がよりふさわしいかもしれない。他に訪ねてくるひとは彼以外にはまずいなかったし、手入れされなくなり時が過ぎ去っていくにつれ醸成された甘やかな空気が彼は気に入っていた。まだ彼が若かったころ、なにかから逃げ出したくなったときは廃屋に逃げ込むことが多かった。逃げ込んで、なんとはない時をここで過ごした。廃屋はいつでも、時が止まったままの美しさで彼を出迎えた。廃屋と同じように美しい獣の相手をしながら、静寂に身を任せるのだ。そうすると、何もかも忘れることができた。彼らの宿命ですらも、ここではなかったことにされた。まるで何事もなかったかのように、彼らは完璧に振る舞うことができた。
 いつからか、彼は逃げ込むことをやめた。それは自然なことだった。ここに移動する時間も惜しいほど仕事が忙しくなったとも言えるが、ほんとうのところは廃屋の存在を忘れてしまっていたのだ。もちろん、美しい獣のことも。完全に頭の隅に追いやっていたのが、このところ急に廃屋の記憶が浮き上がってきた。表面上は甘くて懐かしいはずだった記憶が、いざ思い出してみると汚れにまみれたなんとも異様な、恥ずかしい異物であるようにも感じられた。それでも、彼はまた休暇をとって廃屋に行くことを決心した。決心、というような改まった言葉を使うほどでもなかったが、なんとなく行ってみようという気になったのだ。
 彼はいつでも、廃屋の間取りを一寸たりとも間違えずに脳裏に再現することができる。獣のいる場所はもはや決まっていた。地下の隔離部屋だった。暗い渦のような螺旋階段を、彼は一段一段踏みしめながら降りていった。一段降りていく度に、奈落の渦から戻れなくなりそうな気がしていたが、あまり関係のないことだった。木材の混じった板を踏む篭もった足音が、彼ら以外誰もいない廃屋と、彼の脳裏に煩わしいほどに反響した。衰えはじめた身体は以前よりも重く、段を踏み外さないよう慎重に足を踏み出した。もう若かったころのようにはいかないなと、彼は幾度目かの呟きを心の中で漏らしたことに気づき、苦笑した。
 隔離部屋のドアを開けると、獣が一匹、棺桶から動かずに座り込んでいた。膝を立てて起き上がっているということはつまり目が覚めているということだ。
「起きていたのか」
「ああ」
 彼は自然な声音で声をかけた。獣も、変わりない様子で返事をした。そのやり取りに、10年分の隔たりは感じられなかった。二人の声だけが年をとったように低く太く、室内に響いた。
「きみが起きているなんて、珍しいじゃないか」
「目が覚めているのが、そんなに、珍しいことか?」
「きみはいつも眠っているから」
 彼は、いとおしげに獣の髪に指を絡めた。人間の形をしているとは思えないほど、獣の髪の毛はみずみずしく潤っていた。彼の指は一度も引っかかることなく黒黒とした髪の毛の間を通り抜けた。獣は宝石のような目を細めながら、ぼんやりと、髪を梳かれる手の優しい感触を楽しんだ。
「おまえに、会いたいと思ったから。理由は、たぶんそれだけだ」
 だから、おまえが来る少し前から起きていられたのだと思う。獣はそう付け足した。
「奇遇だね。私もきみに会いたいと思っていたんだ」
「わたしに?」
「そう。会いたいと思ったのは、きみにだけさ」
 彼は静かな声で言った。同時に、地下のなまあたたかい空気がざわりと蠢いた。そして再び静寂が戻った。
「宝条」
「なんだい」
「おまえは、ほんとうは、ここに何をしに来たんだ」
 言葉に詰まった。そう訊かれると、彼はいよいよ自分がわからなくなるのだ。髪を弄んでいた手が止まり、その拍子に獣の繊細な毛が、はらりと床に落ちた。
 仕方なく、彼は素直に「わからない」と答えた。獣は、相変わらずの表情のない上目を彼に向けた。
「忘れたかったのかもしれない」
 なにを、とは言わなかった。獣もそれ以上詮索することをやめた。暗黙の了解じみた沈黙が降りた。手を伸ばすのは決まって、彼の方からだ。老いた手の甲が獣の透き通った肌に触れ、次に両頬を渇いた手のひらが包んだ。
 無駄のない口づけを交わしながら、彼らは互いの感覚を共有した。科学者の考えていることはやはり獣にはわからなかったが、同じ記憶や後ろめたさをわかち合うことは、獣がその場で彼を殺してしまうことよりも容易かった。
 やがて当然のように唇が離れた。彼らはしばらくの間、そのまま口づけられそうな距離を保ったまま、ひっそりと互いを見つめ合った。何も言うことなどなく、それ以上事を進めるつもりもなかった。
「そろそろ行くよ」
 彼は唐突に立ち上がった。廃屋と獣は相変わらず、いつまでも留まりたくなるような美しさだった。彼を永遠に張りつけておくために、建物全体の空気が収縮しているようにも感じられた。それでも彼は行かなければならなかった。出て行かねばならない目的があった。
 獣は無言で彼を見上げた。引き止めるでもなく、かといって促すというほどでもない、適切な視線を彼に送った。獣なりになにかを感じ取ったのかもしれなかった。ドアノブに手をかけたところで、彼は振り向いた。何か言いたげな視線を、再び背中に感じたからだ。
 獣は目を閉じた。これで最後だと確信しているのに、言葉が見つからなかった。鈍くなった頭をいくら回転させても、見つからないものはもうどうしようもないのだ。諦めて眠ろうと思った。科学者は一瞬だけ躊躇の表情を浮かべた後、ノブを回した。あまりぐずぐずしていると、廃屋に取り込まれてしまうだろう。廃屋の一部になるのはごめんだ。私だけは、時を止めてしまってはならないのだ。

 門扉が閉まった。
 それを皮切りに、彼らは廃屋でのことをすべて忘れた。