左手




 目が覚める。
 室内は閑寂とした寒々しい空気に包まれている。室内だけではなく、この建物が。
 目の前の机に科学者が突っ伏して眠っている。
 ベッドがここにあるというのにわざわざそんな所で眠る癖は変わらないものだと思う。
 静かに起き上がる。
 自分が一糸もまとわぬ姿で眠っていたことを思い出して苦笑する。
 同時に、先ほどまでのことも思い出す。
 冷たい指先と偽りなき言葉で、彼は一晩中私を愛する。
 わたしはいつも朦朧とした頭でそれに応える。
 こうして眠った後、彼が言ったことなど大抵の場合は覚えていない。
 矛盾と偽りだらけの男が言うことにたいした意味はないからだ。
 重要なのは傷跡であって、出まかせの言葉ではない。表面上は体裁を保ちながら彼はそれをなぞる。
 わたしは彼の傷跡を探り当てる。
 手を伸ばし、そこに触れながら、わたしたちの感覚を共有する。
 そのときはいつも、なんとも言えぬ感情がわたしの底からふつふつと沸き上がる。
 憎しみ、あわれみ、背徳、嘲笑、そして少しの熱情。
 どれもが織り交ざった不確かな塊。
 そのしこりを潰してしまわぬよう、細心の注意を払いながら、一晩を過ごすのだ。
 そろりと、音を立てずに眠っている彼に近づく。
 起こしてしまわないように。
 まだ、このしこりが残存している間に。
 慎重になるあまり震える手で、彼に触れようとする。
 わたしは目を瞠った。
 触れたと思った瞬間、彼は消失してしまった。
 そうして、ほんとうに思い出す。
 なにもかもが幻だったのだと。
 しかし左手にはまだ冷たい体温が残っている。
 彼が存在していたことを強く暗示している。
 なにがなんだかわからなくなる。
 獣のようなうめき声を上げながら、くるおしい思いを露わにする。
 錯乱しながら、再び机に手を伸ばす。右手は空を切った。ここには誰もいない。
 彼がここにいない。
 わたしはきちがいじみた叫び声を上げた。
 そうして一頻り泣いた後、左手を切り落とした。代わりのように奇形の手が生えてきた。
 切り落とした左の手のひらに、なまぬるい熱が残っていることを確認して安堵の息を吐く。
 苦労して指を折り曲げさせ、きつく握り締めた。彼を決して逃さないために。
 いつも横目で見ていた手順をなぞり、左手を瓶に詰めた。
 それからしばらくは、ホルマリン漬けになった自分の左手を眺めて過ごした。
 数日か数週間か数年経ったのかもわからないまま、飽きてきたのでわたしは眠ることにした。
 次に目覚めたとき、彼が本当に訪ねてきた。ホルマリン漬けの左手と、奇形の腕を見て、心底呆れた顔をされた。
 わたしの肘から下は金属製の覆いで隠されることになった。別にどうでもよかったのだけれど、彼からの贈り物ほど珍しいことはないから、素直にもらっておくことにした。
 そうして再び、眠った。さよなら、と一言だけ言われたような気がするがよく覚えていない。
 眠っている間に、夢をみた。
 自分の身体が徐々に薄い皮膜に包まれていく夢だった。
 糸のような繊維が折り重なって皮膜は厚みを持ち、完全にわたしを包み込んだ。
 その中で、身体が体内から沸騰し始めなにか別のものに変わっていく。
 おぞましいようでもあったが、不思議と心地よさが優っていた。悪夢ではないと思った。
 唐突に変身が終わって内側からばりばりと皮膜を破る。薄暗いドームの中に焼き切れそうなほどの光が差し込む。
 そこで目が覚める。
 夢から覚醒したとき、彼に会いたいと思った。いつものような中毒じみた願望ではなくなっていた。こちら側から会いに行くという考えすら浮かぶほど冷静になっている。
 わたしは彼に会いに行く。
 会って、殺意を確かめる。
 甘やかな憎しみに満ちあふれた殺意でもって、わたしは彼を救ってみせる。
 その瞬間を想像し、わたしは微笑む。想像の中の彼も笑っている。いつもと変わりない、皮肉げな笑みをたたえていることに安堵し。
 再び、わたしは静かに微笑む。



ちょっと錯乱してた時に書いた。