解剖



 鈍痛に襲われた頭をかばうように彼は額に手をやった。ぼさぼさになった髪がまた少し乱れて指と指との間からは混乱した目の光が漏れていた。その目は対象を探してゆっくりと揺らめき、わたしの姿を認めるとじっとこちらに焦点を固定した。気のせいだったかもしれないが彼の息遣いは乱れていたように思う。完全に自分を見失っているのだ。そう推量すると同時に銃口が一瞬だけわたしの視界に映った。頭蓋全体を使って響き渡った甲高い炸裂音は中途半端にブツリと途切れ、すべてが真っ暗になった。わたしは頭蓋と顔の中身を撒き散らしながら床に仰向けに転がった。驚いたことにそんなふうに鼻から上の部分が木っ端微塵になってもわたしの意識ははっきりと残っていた。もちろん、目も見えず耳も聞こえなかったが彼の気配は手に取るように感じられた。ピストルを投げ捨てた彼の未だ錯乱した視線はわたしという死骸に向かって憎しみの言葉を投げ続けていた。その言葉は失われた頭蓋に反響するように何度も、何度もわたしの意識に刻みつけられた。

「君のせいだ」
「きみのせいなのだ」
「きみの罪だ」
「きさまの」
「おまえの」

 ヴィンセントは、棺の中に長身をぴったりと収納し、微動もせずに眠る。何時間でも、何年でも、何十年でも、この男はまったく同じ姿勢で眠り続けることができる。棺の蓋を開けても気付かずに眠っているくらいだ。調整を行う場合は叩き起こす必要があるが、それ以外は彼の寝顔を見ていることが多い。蓋に取り付けられた観音開きの小さな扉からそれを観察するのは、まるで死人を送り出すかのような趣がありそれはそれで別の気分を味わえるのだが、それは宝条にとってはあまりにつまらないことなので蓋を取って直に死人の顔をみる。美人は3日で飽きるというがヴィンセントに関しては見飽きないものだと宝条は思う。それは単純に造形が整っているから、というだけではない。彼はヴィンセントの皮膚から下を切り開いたときの容貌を鮮明に思い出せるし、その記憶はいっそう彼の好奇心を昂らせた。ヴィンセントは、外見だけでなく、≪中身≫も美しい男だ。本音と皮肉が入り混じった、これまでと同じ言葉を、宝条はひっそりと心のなかで呟いた。

 つい先程まで氷水に浸けられていたのかと思うほどに冷たいメスの刃先が、わたしの腹部を突き刺した。頭部の大部分を失っているわたしに悲鳴を上げることはかなわなかった。そのかわり歯がカタカタと鳴ったような気がした。どす黒い血がこびりついたそれは無影燈の光を強く反射し、刃物というよりももはや光そのものに近かった。光はわたしの腹部に真っ直ぐな線を描き、それから名前のわからない器具が切り口を押し広げた。肉壁、血管、神経、内臓と、わたしの内部は光によって徐々に曝かれる。切り開いては器具で切開部を固定する、そういった作業が何度か繰り返されながら、ある適当な部位に到達したとき、彼はそれまで嵌めていた手袋を取り去った。無影燈の光に汚れのない彼の素手はよく映えた。血が通っていて、あたたかかった。彼は当然のように切開部に手を差し入れ、わたしの中を探った。奇妙なことに心臓は平然と脈を打ち続けている。輸血なしの解剖だというのに腸管にいたっては蠕動運動が行われている。主を失っているも同然だというのに、わたしの内部は未だ血の通った肉体のように不気味に蠢いているのだ。あたたかい指先が、慎重に肉ひだをなぞっていく。異物を察知した腸管がそれに反応して痙攣する。やがて光をまとった刃先が無慈悲に肉を切り取り、次々に空洞ができる。肉体から乖離した臓器はシャーレに放り込まれてのたうった。心臓は最後に切除され彼の素手の中でも慎ましやかな鼓動を続けた。生まれ落ちたばかりのひとつの生物のようにそれは彼の手の中でいつまでも蠢いていた。頭蓋ももひととおりの臓器も失い文字通りの抜け殻になったというのに、わたしの意識ははっきりとしている。
 わたしはまだ死ねないでいる。

 宝条は不意にかすかな動きに気がついた。ヴィンセントのまつ毛が細かく痙攣していた。そろそろ覚醒が生じる頃だろうか。そう考えた彼はしかし変わらずにヴィンセントを観察し続けた。死体の目が覚めたからといって今さら何を身構えるでもない。だが、いつまで待ってもヴィンセントのまぶたが開くことはなかった。みずみずしく長いまつ毛はぴくぴくと痙攣したままだった。それ以外に変化はない。夢から目覚めることがないまま、ヴィンセントは眠っている。
「ヴィンセント……」
 苦しげな声が、死体の名を呼んだ。
「きみは……夢の中で何度自分を殺し続ければ気が済むんだ……?」