幸福の先延ばし




 すうっ、と浮上するような覚醒が、ヴィンセントの眼を開かせた。
 隣には、科学者の痩せた身体があった。黒いまつ毛に縁取られたまぶたの周りが、泣き腫らしたように赤くなっている。嗚咽じみた声を上げながら、ヴィンセントのされるがままになっていた科学者は、実際にその間泣いていたのかもしれない。そう思わせる、やつれた寝顔であった。
 ヴィンセントはそっと宝条を抱き寄せ起こした。まだ眠っている宝条の細首は力なく仰向いた。最中には熱を帯び、蠱惑的に火照っていた肌が嘘のように青白くなっている。接吻の痕は残さなかった。それは、他の相手と同じような単なる行為ではないという、ヴィンセントなりの区別であった。この男との行為は、明らかに違う、と彼は思う。恋愛感情からくるものではないということは、おそらく互いの承知の上だろう。では、なぜこうも毎回ものぐるわしい行為に耽るのかといえば、その理由は、精神的な重圧を感じているらしい科学者が、彼には痛ましく思えたからだ。夢遊病者のような表情で、毎度地下を訪れる唯一の男が見るに耐えられず、そうした想いから彼は一度、事を始めようとした宝条を逆に押し倒し、そのまま行為に及んでしまったことがあった。その割には抵抗らしい抵抗はみられず、驚いたのはむしろヴィンセントの方であった。
 それ以来、逆転した立場が続いている。ヴィンセントは、こわれものを扱うように科学者の冷たい身体に触れた。触れた部位から伝わる感覚は快楽に変わり、宝条はしだいに全身でもってヴィンセントを求めるようになり、内部への侵入を許した。
 しかし彼には、互いに密着し、腰を揺するだけのことに没頭するのがどこか虚しくもあったし、こんな関係を終わらせたいと常々思っていた。ではどうすれば終わらせられるのだ。科学者の内に秘めた混沌たるものは、ヴィンセントにはとてもはかり知れるものではない。
 そうした感情の捌け口を求めてここに来る科学者は、堕落した行為に沈む自分自身のことをどう考えているのか。それを問おうとするヴィンセントには常に恐怖が付き纏った。結局のところ、この関係を終わらせる勇気は彼にはなく、その裏で悪くはないと思っている自分がいることも知っていた。進退窮まっている。これも自分に与えられた報いだろう、と彼は無理やり自分を納得させるしかなかった。
 首が据わっていないことからの息苦しさか、宝条は眉根に皺を寄せた後、おもむろにまぶたを開けた。そしてすぐに首をもたげたが、咳を一つしただけで、自分を抱き起こしている相手の方を見ることはなかった。いや、意識的に見ないようにしているだけかもしれない。気の長い男であるので、ヴィンセントは特に何も言わなかった。
 居た堪れなくなったのは宝条の方だった。
「……なんだ」
 不機嫌さを募らせた低い声で、宝条は言った。そこでようやく目の前の男と顔を突きあわせることになった。
 ヴィンセントは何も言わない。そもそも科学者を抱き起こしたのも半ば衝動的なことで、理由などなかった。何も言うことがないので、宝条の頭を支え、返事の代わりとでもいうように、そのまま深く口付けた。
「んっ、う……う」
 そこまで激しく口づけるでもなく、ヴィンセントのキスは、なだめるような細やかさをもって相手の口腔内を舐めた。それでも眠りから覚醒したばかりの宝条にとって、冷静な判断力を失うのには十分であった。ヴィンセントが唇を離した後も、宝条の目つきはどこかさまよっていて、目元の赤みは引いていくどころか元の赤さに戻っている。
 それは先ほどの情事の最中の科学者の、淫れた姿を、ヴィンセントに思い起こさせた。生理的ななにかが込み上げ、ヴィンセントは頭を支えていた手を胸に回した。夜明けの薄ら寒い空気で、そうした刺激に敏感になっていた薄い胸板は、本人の意思に関係なく反応を見せる。力の抜けた宝条の腕は、ヴィンセントの手を退けるには至らなかった。
 身体をまさぐる手がゆっくりと下方に移動していっても、目立った抵抗はない。満更でもないと思っているのか。ヴィンセントの手にあてがわれていた宝条の片腕は、やがて、ぱさりとシーツの上に落ちた。それを了承と取った彼は、そのまま進めていくことにした。
「欲情、してるのか」
 ふいに、宝条が言った。荒い息を吐きながら、それでも余裕を持たせた声であった。薄笑いすら浮かべている。何を今更、とか、おまえも同じだろう、とか悪態をつきたいのは山々だったが、ヴィンセントは肯定と取れる気のない返事をしただけだった。今更言わなくとも互いのことは理解しているつもりだ。こうして身体をつなぎ止めなくては――特に宝条においては――今まで保ってきたものが崩れ去ってしまうに違いない。それがおそろしいのだ。彼らはこうする以外で自分たちの対面を保ち続ける術を知らない。
 欲情したから性交に及ぶ、それだけのようであって、それだけのことではないような気がする。ただでさえ不安定な関係を維持し続けることで安堵感を得たいのだろうか。まだそんな気持ちが自分たちの中には残存しているのだろうか。いずれにしても不明瞭なことであった。
 科学者の探究心の強さから言えば、はっきりしないことを放っておくのは彼の道理にかなわないがしかし、そのままにしておくのがいちばんなのだと、無意識下で判断していた。今はまだ、この関係を続けるしかないと。
 曖昧な関係はいつしか崩れ去る日が来るだろう。そしてその先に待っているであろう暗澹たる結末がヴィンセントのまぶたの裏に浮かぶ。しかし、時が来たらばそれは陰惨な終わりではなく、彼らにとっての「ふさわしい結末」と成り得るのだろう。はっきりと予感している冷静な心持ちに反して、ヴィンセントは宝条を愛撫する手を止めない。静謐な空間の中で愛撫は次第に深みを増し、再びなやましい声が上がるのだった。

 前も後も覚束ない足元を歩いているようでいて、われわれは着実に崩壊への道を歩いている。
 
 平淡な思考のまま、ヴィンセントは科学者の中に熱を放った。気が遠くなるほどの絶頂感も、彼には遠い世界のことのようだった。身体と思考が分離しているような感覚が、ずいぶん長い間治っていない。不快なことではないのだが、これからも治りそうもない感覚だとヴィンセントは思った。われわれの崩壊がおさまり、すべてから解放されるまでは。
 ぐったりと弛緩した細く小さな肢体を緩々と抱き竦め、彼は再び暗雲の思考に意識を投じる。