くちびる




 ノックもなしにいきなりドアが開いてこの男が入ってきたときは何事かとレポートの整理をしていた手を止めてその方を振り向いた。柄にもなく興奮しているらしい彼の口から次々に出てくる筋の通らない話を黙って論理的にまとめていると要するに私たちの実験をやめろと言いたいらしいことがわかった。感情に流されるなどまったくもって彼らしくない、それならそうと要点だけ簡潔に述べればいいものを。なんと言われようが私は実験を中止するなどという愚かしいことはしないつもりだ。人類史上に残る重大な試みであるから彼ごときの男に抗議されようが彼女のためにも手術は断行しなければならない。無論そんなことを噛み砕くように言っても意志の堅い彼には効果は無さそうだから黙って整理を再開していると地下室に響く彼の声がいつしか喚くようなものに変わっていた。うるさいなと思ったがやはり耳を貸さないのが一番だと判断した。余計な騒動は起こしたくなかったからだ。やはり手を止めずにいると次第に彼の声には悲痛なものが混ざってきているように思えた。頑なに引き下がろうとしない、それほど彼女のことを愛しているのだろう。だが私には彼の私情などまったくもって関係ない、むしろ不快だ。我々には我々なりのやり方があるのだ。そうしているうちに震えたしかし妙にはっきりとしたその声が私の耳から脳神経に染み渡るように届き私の頭は真っ白になった。ふと気がつくと右手に握っていた重みは拳銃であることがわかった。血まみれの男がうつ伏せになって倒れていた。寸前のその声が何を言っていたのかは未だに覚えていない。
 完全なる心臓死と判断し死体を手術台に持ち込んで少し考えたあとモンスターの細胞を移植することにした。医学的には男は息を吹き返したが死んだように眠ってばかりいるので死んでいるも同然だろう。死んだなら死んだで放っておけばよかったと今さらになって思うのだがなぜ彼に限ってはわざわざあんな手術を施したのか明瞭な理由はわかっていない。そんなことを考える時間が無駄なのだ。棺桶の蓋を少しだけずらして彼の顔を覗きこむと透き通るような青白さだった。やはり死人じゃないか。これに懲りてもはや私の邪魔をすることは二度とないだろう。霜が下りたように冷たく何も映してはいないまったくの無表情な寝顔だ。やはりきみは美しいのだねと言った、我ながらうわ言のような響きだった。死んでからもなお美しい黒髪と貞淑な麗女のように固く結ばれた色味のよい唇。というよりも毒々しいほどの紅色は真っ青な顔にぞっとするほど映えている。骨格ひとつとっても実に均衡が整っていて崩れた箇所を探すことの方が困難なように思える。私のセフィロスほどではないが。棺桶の傍に跪き死体の唇に指で触れてみるとじわじわと熱が伝わってくる。まるで唇だけに血が流れているような熱さで他は無味乾燥な冷ややかさを保っている。唇は温度を増したが私は指を離すことを忘れて死体に見惚れた。指で唇をすこし持ち上げるとみずみずしい弾力を感じると同時に妖しい光を放つ歯列が見えた。成人男性の平均的なそれよりも大きく尖った犬歯が覗いた。それは彼の大きな魅力のひとつだと私は思っている、決して攻撃的とはいえない彼の身体にある唯一の攻撃性を感じる部分なのだ。気がつくと人さし指に発火しそうな程の高熱を感じたので即座に指を離した。熱を発しているのは死体の唇なのかまたは私の指なのかもはやわからなくなっていた。死体の目が開いて真っ赤な瞳がまっすぐにこちらを見ていたので私も彼の方へまっすぐに視線を返した。
 死体が起き上がったのがあまりに唐突なことで私は何も身構えなかったがかえってそれはいいことだったのかもしれない。首筋が熱かった。炎に炙られていると錯覚するほどに。犬歯が鎖骨の真上に深く食い込んでおりある種の麻薬じみた毒物のように私に快楽を与えるのだった。ヴィンセント。思わず感嘆の声が漏れた。ヴィンセント。美しいきみはいま捕食者となった。