Noon-Time-Coffee




 コーヒーを運んできたヴィンセントが、ソファに腰掛けていた宝条を押し倒すように動きかけたのは、唐突のことだった。
「おい」
 それまで開いていた科学雑誌が床に落ちる。宝条は別段気に留めなかったが、相手のタークスが何の兆しもなく自分に覆い被さったことには憤慨の意を露わにした。
「何の真似だ」
 ヴィンセントは無言だった。端正な顔にこれといった表情はないが、力のこもった熱い視線が降り注いでいるのが、否が応でも宝条にはわかった。双眸が熱く、沸騰しそうにさえ見えるのは褐色の虹彩のせいかもしれない。美しい顔立ちのほんとうの無表情というものはいっそ不気味さすら感じさせるのだ。更にその眼で見つめられると、誰だって硬直してしまうだろう。
 こういうときほど、この男は危険で予想外の行為に走りがちだ。ある程度の付き合いから、宝条はそのことを熟知していた。だが、今のところはただの同僚の域を出ない私に何の怨みがあろうか。無論、これまでの些細なことが降り積もって、はち切れそうな怒りに変わっているということも考えられなくはないが。
 ――しかし、と宝条は思う。他に思い当たる節があった。これではまるで。
「あっ」
 タークスの膝が宝条の股に割って入った。彼は思わず声を上げた。やはりそうか。しかもこんな真昼間から。ふざけるなバカめ。
 長くしっかりとした指が白衣を剥ぎ、シャツのボタンに手をかけようとする。ヴィンセントは変わらない無表情だった。そのくせやはり、眼窩にだけは鬱陶しいほどの熱を滾らせていた。
「いきなり、発情、するなっ、このっ」
 その熟練された腕を引き剥がすには貧弱な科学者の力ではやはり無理があった。普段は手加減しているくせに、こういうときに限って怪力を発揮するとはどういうことだ。宝条はできる限りの力で拒否を試みたがそのどれもが失敗に終わった。
 彼は諦めのため息を吐いた。それ以上拒絶の気配がないことを確認すると、ヴィンセントは再び無言で相手の服を脱がし始めた。
「……」
 ごく自然な沈黙が暫し続いた。ヴィンセントは、意外に性急さを感じさせない速度で自分の服も脱ぎ始めるのだった。
「今日は、きみが挿れるのか」
 投げやりな声で宝条が言った。
「私の部屋だからな」
 耳元で囁くのだが、科学者は不快そうに眉根を寄せただけだった。顕になった白い胸に舌を這わせる。最初の反応はごく薄いものだったが、執拗に刺激を続けていると、殺し切れないくぐもった声が不規則的に洩れ聞こえてくる。気を良くしたヴィンセントは下半身に手を伸ばし、緩やかに上下し始めた。同時に、宝条が明らかに恥辱とわかる表情を浮かべる。今すぐ相手の睾丸を蹴り上げればこのふざけた行為は終わるだろうか。しかし、せっかくのタークスの健康体に無闇にダメージを与えるのは好ましくないことだ。だからといってこのまま最後までされるのはプライドが。思考は煩わしい快楽に飲み込まれる。宝条は次第に何も考えられなくなっていった。
「あっ、あ、あぁ」
 宝条の両腿は大袈裟なほどに開かれ、力強い律動を受けながらも、必死に閉じられようとしていた。ときどきヴィンセントを呼び出しては、気まぐれで色々とけしかけたり興味本位での情交を迫ったりした彼が、そのタークスの思い通りに犯されるなど、我慢ならないことだった。彼はやはりその時の気まぐれに応じて、たまには挿入させてやったりもしていたのだが、こうして無理矢理に侵入されることほど屈辱的なことはないのだ。ふと、宝条は、女のように洩れ出てくる自分の喘ぎに嫌悪感をもよおし奥歯を噛み締めた。ギリギリと歯軋りの音が鳴った。
「声……」
 独り言のように声を低めてヴィンセントが言った。宝条は目を閉じたまま、聞こえないふりをした。
「宝条。あんたの声が聞きたい」
 整った爪先が科学者の唇に触れた。無理にこじ開けるでもなく、その手指は愛撫するように彼のエロティックさを感じさせる、少し突き出たふくらみのある唇を撫ぜる。そしてそれすらも、リビドーに溺れかけた科学者にとって性的快感に変わるのだった。否応なしに宝条の口は半開きになり、先程よりも惜しげなしに声が上がった。同時に瞼も開かれ黒い水底を思わせる虹彩が再び覗いた。
 ヴィンセントは満足げに薄笑いを浮かべた。調子に乗っているらしく、彼は科学者の腿の付け根を限界まで折り曲げさせた。陰部が露わになるような体勢だった。男性にしてみては無理があり、かつ恥辱的な姿勢をさせられたことに憤慨しない宝条ではなかったが、強烈な絶頂感に襲われそれどころではないのだ。絶頂が近いのはヴィンセントも同じであり、息が上がってきていた。自然、腿を押さえる手に力が加わり、ヴィンセントは律動を速めた。そうして何度か激しく擦り合った後、彼らは同時に頂点を迎えた。
「愛してる……」


 ヴィンセントは、激しい後悔の念に襲われた。射精後独特の現実認識力が、力に任せて強姦まがいのことをしてしまったという罪悪感と、報復として科学者に何をされるかという恐怖心を生み出していた。服を着直し、ソファに座って腰を折り曲げ、どんよりとした表情を浮かばせている。隣では宝条が、冷めてしまったコーヒーを飲みながら何食わぬ顔で科学雑誌を読みふけっている。
 途方もない快楽に突き動かされるまま、ヴィンセントは無意識のうちに「愛してる」と口走ってしまっていたことに気付いた。それも、しつこいくらいに何度も科学者に愛を囁いていたらしい。肉欲に浮ついた思考だったとはいえ、どこからそんな突拍子もない言葉が口をついて出たのだろう。ホモじゃあるまいし、自分は今まで宝条の気まぐれに仕方なく付き合わされていただけだ。なによりも、彼はどんな気持ちでヴィンセントの囁きを聞いていたのだろうか。何か言いたげな視線を宝条に送っても、それとなく音を立ててみても、何も反応はない。完全に無視されているのだ。ああ。どう謝ればいいのだろう。ヴィンセントの苦悩はとぐろを巻き始めた。
 雑誌に目を通すふりをしながら、宝条は、ヴィンセントに対する仕返しはどのようなものがいいだろうかと、冷静な思考を続けていた。「強姦魔」と罵るだけでは足りないだろうし、あれだけの辱めを受けたのだからこちらも相応、いやそれ以上の報復を考えなければなるまい。それにしても「愛してる」などという空々しい言葉がよく言えたものだと思う。いや、あのときのヴィンセントの様子は真摯そのもののようにも思えた。本気だったにしろそうではないしろ、気が触れていたと考えるのが妥当だろう。投薬実験はしばらく控えるべきかもしれないな。
 網目のように思考を巡らせている裏で、彼はヴィンセントの台詞を反芻した。<愛してる>そして、この寒々しい決まり文句に、身体の芯が脈動するような気配を感じた。何を考えているんだ。馬鹿馬鹿しい。そう自嘲する理性とは裏腹にヴィンセントの声音が再生される。表情が再現される。その瞬間の陶然としたリビドーが鮮明な記憶となって浮かび上がる。
 宝条は身震いした。なにかに弱みを握られたような気がしていた。狼狽を気取られぬように口に含んだコーヒーは、不快な甘苦さを残して喉元を滑り落ちていった。