Overdose Delusion




 いやにはっきりとした視界だった。映画か何かを見ていて、いきなり場面が切り替わった感じに似ていた。
 向こう側の壁に鮮やかな赤色が伸びているのがちょうど目に入った。その真下によく見知った男が蹲っていた。見知った男のはずが、トレードマークである白衣の大部分が赤い染みで汚れていて、まるで別人のようだ。立ち上がる気配はなかった。
 なぜ地べたなんかに座っているんだ、と私は声をかけようとしたができなかった。触れられてもいないのに、喉が締め付けられるようで、呼吸は苦しくなってきていた。
 男に近付こうとする足がもつれた。科学者は壁際に座り込んで俯いたままで、一向に動こうともしない。疲れているのだろうか。それとも怒っているのだろうか。一介のタークスにすぎない私が重大プロジェクトに口出しなどしたものだから、怒っているのかもしれない。きっとそうだ。
 やっとの思いで壁際まで寄り、顔を覗きこんでみた。両目も、色の悪い唇も閉ざされていた。怒っているわけでも、疲労の色が表れているわけでもなかった。眉間の皺ひとつなく、唇は平行線を描いている。無表情な人形じみた顔で、彼は眠っているのだ。
 呼吸は楽にはならなかった。肺の中に瘴気が充満しているような気分の悪ささえ感じる。気を落ち着かせようと深呼吸しようとしても、余計に胸が苦しくなるだけだった。足が震えている。タークスという仕事に就いてから、こんなことは久しぶりだった。
 しかし原因がわからなかった。なぜ息が苦しくなるのか。なぜ私の足は震えているのか。なぜ目の前の男は起きようとしないのか。
「宝条」
 名前を呼んでみるが、いつまで待っても返事がない。瞼も口も堅く閉ざされたままで、ぴくりとも動かない。大声を出しても、頭を打ち付けないように軽く肩を揺さぶっても、結果は同じだった。揺さぶられた勢いで首がおかしな方向に曲がった。いつもの彼だったら、ちょっとした衝撃でも、すぐに目を覚ましたものだというのに。
 男の顔色は先程よりも青白くなってきていた。やはり疲れているのだ。昨日は夜通しプロジェクトの計画を練っていたようだから。
 だったら、ベッドで寝ていればいいのに、と思う。なにもこんなところで、しかも座り込んで眠る必要などないだろう。相変わらず仕方のない男だ。余計な衝撃を与えないように、慎重に、私は彼を抱き上げた。以前こんなふうに抱き起こしてベッドに寝かせたときよりも、身体は軽くなっていた。また痩せたのだな。放っておくとろくな食事をしないのだから。
 科学者を両手に抱いて立ち上がろうとすると、足元がふらついた。途中で雑多なものにぶつかった。目覚めはしないかと、びくびくしながら簡易ベッドまで歩み寄る道のりが、異常に長いように思えた。両手と両足の震えをなんとか誤魔化しながら、そっと彼をベッドに寝かせた。息苦しさに加えて、頭が割れそうに痛み出し、視界が歪みだした。目頭が熱くなり、白い輪郭と赤い染みが目の前で混ざり合った。

 私はベッドの傍に置いた椅子に座って、横たわる彼を見ていた。そのままどれだけ時が過ぎ去ったのかわからない。男が目を覚ますことは、とうとうなかった。よほど疲れているのだろう。Yシャツを中心に白衣まで広がった赤い染みも、壁の染みも、既に変色してしまっている。
 彼の寝顔は、死人のように美しかった。いつまでも伏せられた睫毛がひそやかに影を作っていた。乾いた唇に何度か口づけてみた。口角から顎にかけて、赤い液体が流れ落ちた痕跡が幾筋かあった。涙の跡のようだと思った。
 息苦しさも、手足の震えも、頭痛とももう無縁になっていた。
 私はいつまでも彼の目覚めを待ち続けている。彼が座っていた壁の近くには、神羅製の拳銃と薬莢が転がっている。






「おしまい」の裏ver。タイトルはサイレントヒル2のサントラより引用。前から書こう書こうと思っていたシチュでしたが某方のおかげで踏ん切りがつきました。