おしまい




 耳を劈くような銃声がした。
 それにも関わらずヴィンセントの足元は奇妙に揺らいでいて、夢遊病めいた浮遊感に支配されている。
 普通でない光景がすぐそこにあるというのに、ヴィンセントの思考は遠い。ごうごうと唸るボイラーの音が歪んで聴こえる。視界にあるもの全体の輪郭がぶれ続けていて、一定ではない。室内が天井まで浸水してしまえば、同じ感覚を味わえるのだろうな。彼はぼんやりと遠くを見ながら思った。
 目の前にある白が、ある1点から順々に紅い染みに浸食されていく。無地に綺麗な模様がついてよかったじゃあないか。だがこのままでは染まりすぎて今度は真っ赤になってしまうぞ。赤なんて派手な色、あんたには似合わないよ。
 右手に握っていたものを取り落としそうになり、ようやくヴィンセントは我に返った。
 壁に身体を預けて浅い呼吸を繰り返している男がいる。ワイシャツの胸の部分は、後から後から滲んでくる紅に巻き込まれて酷い惨状になっている。灰色のスラックスを纏った膝が痙攣を起こしていて、今にも倒れそうだ。
 ヴィンセントは何か言おうとして小さな声を漏らした。何も言うことなど思いつかなかった。どうして宝条が血まみれになっているのだろう。どうして自分は銃を握っているのだろう。どうして自分もまた血にまみれているのだろう。
 いつもは臨機応変に働く頭が今回だけは霞がかって鈍くなっている。室内は森閑としているのに、ボイラーの音と宝条の呼吸する音のみが大音量で抽出されて耳の中に入ってくるようだ。何かしなければ、と思っているのにヴィンセントの足は縫い付けられたようになって、一向に動こうとしない。
 そうこうしているうちに宝条の両膝が限界を迎え、その場から崩れ落ち、壁には真新しい血痕が伸びた。宝条は俯いたまま何も言わない。ぜいぜいと息をしているだけで、やがてはその呼吸も止まってしまうだろう。
 彼と言い争っているうちにひどい怒りを感じたのだったか、いきなり頭が真っ白になった。頭が真っ白になっていたので、それ以降の記憶はない。ただ、平生からそんな気はしていたのだ。いつかは彼に殺されるか、あるいは自分が彼を殺すという結末を迎えるのかもしれないと。
 だが本当にそんなことになってしまった時のための対処など、ヴィンセントは考えたこともなかった。ああ俺はとんでもないことをしてしまったぞ。仕事は失敗だ。それどころかこれは会社への反抗ととられても仕方あるまい。
 ――どうすればいい。
 ヴィンセントは視線を落とした。壁に凭れてぐったりと座り込んでいる宝条の眼は既に閉じられていた。銃創の苦痛にあがくことすらせず、弱々しい息をしながらじっと自分の死を待っているようである。普段から殺しても死にそうにないと思われていたくせに、本当に死ぬ時は呆気ないものだ。応急処置の方法くらいは心得ているが、この男にそんなものを施したところで自分が撃ってしまったという事実は変わらないのだから、無意味だ。いつまでもこんなことをしていると、他の社員たちがやって来てこの惨状を見られてしまうじゃないか。真っ赤になった宝条の胸を見て、銃を持った自分を見て、ルクレツィアは気が狂ったような叫び声を上げるだろう。
 ――どうすればいい。
 ようやく身体が動くようになって、ヴィンセントが屈み込むと、宝条の眼が億劫そうに開かれた。何か言いたげに唇がかすかに動いたのだが、ただの一言も声にすることはなかった。
 しかしヴィンセントは眼を瞠った。紫色になったその唇がゆっくりと笑みの形を作ったからだ。もう死んでしまうというのに、何を笑うことがあるのだろう。最後までおかしな奴だ。
 いや、死んでしまうからこそ彼は笑うのだろうか。「死」という、最初で最後になる貴重な体験を心の底から笑っているのだろう、たぶん。ヴィンセントはそう見当をつけた。常人ではない宝条が考えている本当のことなど、今の彼には理解できなかった。
 だが彼が本当に死んでしまえば、自分はともかく彼女の心に深い傷を負わせてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
 ――どうすればいい。
「もう手遅れだよ」
 もう、手遅れだ。
 焦りを顕にしているヴィンセントを嘲笑う響きで、もう一度宝条が言った。そんな気力がどこにあったのだろうと思うほどに、澄んだ声だった。そしてそれを耳にした途端、彼の背筋を冷たい衝動が走った。
 ヴィンセントは立ち上がった。右手に持っていたものを両手で握り直し、弾が装填されたその口をそろそろと顎の下に押し付けた。
 そして引鉄を引いた。






もしもあのとき、撃たれていたのが博士だったら。