ごくたまにだが、額全体にじんわりと広がる頭痛で目が覚めることがある。棺桶の蓋を開けても辺りは真っ暗で何も見えない。地下なのだから当然だ。特にすることもないので、大抵は明かりをつけずにまた長い眠りにつく。
 しかし今日は違った。蓋を閉めようとした途端にドアの開く音がして、地下室がぱっと明るくなった。
 体内に蠢く魔物のおかげか、寝起きにもかかわらずいやに意識ははっきりとしている。何年ぶりかもわからない来客だがどうせここに来る人物は決まっている。
「起きていたのか」
 かけられた声の主を振り仰いだ。くたびれた白衣がびしょ濡れになっている。夕立か何かに遭ったらしい。
「参ったよ。傘を持っていなかったものでね」
 そう言って男は白衣を脱いで椅子にかけた。伸びた髪の毛が顔に張り付いているのを煩わしそうにかき上げる。以前会った時よりも少し老けたようだが全体的にはあまり変わっていないように見える。前回彼が来た時から過ぎた歳月は、そう長くはないのだろう。
「調子はどうだ」
 正直に頭痛のことを言うと、彼は少し驚いたようだった。冷えた手が額に当てられたが、生憎熱っぽさはない。
「熱はないようだ。一応体温計で測っておこう」
 今回たまたま体温計を持っていたわけではなく、ここに来ると、彼はいつも記録のため体温を測るように言う。最初の頃は自分がいよいよ実験に使われているようで嫌だったが、今はもう気にもならない。冷たい棒状のものを腋に挟むと同時に沈黙が降りた。
話すことがないわけでもないが、進んでこの男と世間話などする気にはならない。必要最低限の会話だけで十分だ。私はサンプルで、彼は研究者なのだから……。
「平熱だな」
 体温計を取り上げると、彼は変わらないトーンで言った。未だ額には鈍痛があった。起きているのが辛くなってきたので、起こしていた上体を棺桶に戻した。最初のうちは投薬だの施術だのの実験で彼に会うのが苦痛だったが、今ここに来たところで彼は記録以外に何もすることはないはずである。そもそもこの頭痛の原因は一体なんなのか。彼が作ったこの身体に、何か欠陥でもあるのだろうか。
「偏頭痛の一種かもしれないな。気圧の変化で、頭が痛くなることがあるらしい」
 私は医師じゃないから詳しいことはわからないが、と男はノートに何か書きながら言った。それ以外に不調はない。触診が終われば今日はおしまいだろう。
「脱ぎなさい」
 緩慢な仕草で背広とYシャツを脱ぐと、むき出しの肌が外気に触れた。少し肌寒い。今は春先か……それとも、もはや季節は冬に向かおうとしているのか……。


 捨て去られた屋敷の地下にいると、上からの物音はおろか、雨音すらも一切聞こえてこない。電気は辛うじて通っているが、灯りをつけない限り暗闇である。時間感覚は狂い、食欲と性欲は失せた。それでも睡眠欲だけは残っているのか、やたらと眠い。そのくせ繰り返し夢にみるのはあの日の悪夢だった。
 孤立した部屋……地上から完全に切り離され、永遠に停止したままの空間……。悪夢を見続けるのは苦行ではあるが、私はここから出ることはできない。時が経ち過ぎた今では、ここが私にとっての唯一の居場所であり、まかり間違って外に出たならば、過ぎ去った今までの時間が私を叩きのめすのだろう。
 私はふと、笑い出したくなる衝動に襲われた。これではまるで、胎児だ。
 彼は一人笑っている私を訝しげな表情で見つめていたが、何も言わなかった。
 やがて笑いも収まると、彼がいつまでたっても帰宅しようとする素振りを見せないことに気づいた。検査も記録もとっくに終わっている。
「帰らないのか」
「雨が止んだら、帰るよ」
 男は椅子に座ってぼんやりと遠くを見ているようだった。毛先から雫が落ちるほどびしょ濡れになっていた髪は、多少の湿り気を残して乾いてきている。
 いつもならば、池に落ちた石が沈むようにすぐ眠りにつく私は、この時に限って眠れないでいる。おそらくこの男がいるからだろうが、私はそれが苦ではなかった。相変わらず何を考えているのかわからない。だが、彼が私たちの人生を狂わせたというのに、彼が私を殺したというのに、なぜこの男が傍にいると妙な充足感を感じるのだろう。
 どこまで考えても答えは出てこなかった。白い背中を見ていた私は諦めて横になり、目を閉じた。
 頭痛は治まった。
 雨は止んだだろうか……。