神の奴隷か、遺伝子の奴隷か、ジェノバの奴隷か、それとも。


SLAVE




 薄暗い屋敷の静寂を唐突に割って入ってきた男は、わたしの髪を散髪しながら言った。
「……もし、過去に戻れるとしたら、きみはどうする?」
 あまりに彼らしくない質問に、思わず振り向きそうになった。わたしの頭は彼の手で即座に固定され、元の位置に戻った。
「動いてはダメだ。切り傷を作ったところできみには何の問題もないが、私の手が汚れる」
「それはすまない、おまえがそんなことを訊くとは思わなかったから驚いただけだ」
 彼の嘆息がわたしの首筋にかかった。
「時々ね。私も、過去に戻って違う選択をしていれば、と思うことがある」
 何と答えるべきか迷って、わたしは沈黙した。その間にも、男は器用に鋏の取手を開閉しながら、毛先を整えていく。
 それにしても驚いた。この男も人間だったのか、とわたしは思った。
 彼はけして自分の行いを反省しない。反省しないし常に自分が何をしたいのかを考える。過去を後悔し、贖罪ばかりを考える私とは対象的であった。
 だから彼が、彼の人生において、過去に戻りたいと考える必要はどこにもないのだ。
「おまえの言う過去とは、どの時代のことだ」
「訊くまでもないことだな。特にきみにとっては」
 顔の間近の毛が切られ、毛束が頬を滑り落ちていった。
「ほんの数年の間に、ずいぶん環境が様変わりしてしまったものだ」
 きみの髪も伸びた、と彼は付け加えた。
「もし、あのときに戻れるのだったら」とわたしは迷いなく言った。「わたしはおまえを殺し、自分の頭を撃って死ぬ」
 男は暫くの間、黙って鋏を動かしていた。
 二対の刃が時おり首筋に当たるとひやりと冷たい。しかし彼は先程も言ったように、血迷ってもわたしを傷つけるつもりはないだろう。
「本末転倒だな。思った通りのつまらない答えだ」と幻滅したように男が言った。「きみと心中するつもりはないよ」
「たとえば、の話だろう」
「そう。たとえば、の話だ」
 ところで、とわたしは言った。
「おまえは……過去に戻って、どうするつもりなんだ?」
「仮に。過去に戻ることができたとしよう。私には、今の経験と知識を持ってしても、セフィロスの誕生を止めることはできないだろう」
 それは傍から見れば倫理に反している。しかし、一人の親ならば至極真っ当な答えなのだと私は思い至った。
 きみならどうする?と男は同じ質問を繰り返した。
「おまえなら、わたしが全力で実験を食い止めようとしても、同じ力で抗おうとするだろうな」
「まあね」
「わたしの答えは変わらないが。あの実験が行われず、おまえたちがごく普通にセフィロスを産んでいたら、とは考えないのか」
「考えたさ」
 私は唾を飲み込んだ。
 冷たい刃が、はっきりとした音を立てて毛先を刈っていく。
「もし、きみが撃たれずに済み、人体改造もされず、セフィロスが普通の子どもとして生まれ、妻と家庭を築けていれば。その平凡で最上の幸福を考えないほど、私は人非人ではないよ」
 妻、彼がルクレツィアのことをそう呼ぶのはおそらくこれが最初のはずだ。わたしは俄に恐ろしくなってきた。
「でもね。結局のところ、セフィロスをセフィロスたらしめているのは、《彼女》の遺伝子そのものではないかと。薄々知ってはいたことだが、最近の研究でわかってきたのだよ」
「彼女……」
「だとすれば」彼は言った。「実験をしたことに対する後悔など、意味がないのだ。あれそのものを、そして我々を否定することになる」
 彼の指が私の毛先に触れた。
「確証はないが。あれはいずれ、世界の脅威になる」
「本気で言っているのか」
「それほどの力を孕んでいるかもしれないという仮説がある。だから神羅に匿っておくつもりだが、もし。あれが世界を憎むようになったら」
 と男は言った。
「私はセフィロスに加担し、セフィロスに対抗する者たちを排除する」
「……宝条……」
 散髪するための鋏は髪以外を切ることはない。彼の手はどこまでも理性的で、冷静ですらあった。
「そのためならば、星ひとつ破壊することになっても構わん」
 彼のためならば世界などどうでもいいと、男は言う。
 彼を否定するだけの世界ならば消し去ってしまえばよい、と男は言う。
 親心というものは、慈悲深く残酷だ。子を守るためならば、たとえその外敵が世界そのものであったとしても、彼は極端な行動に走らざるをえないだろう。それは理性ではない。彼らしくない、子孫を残そうとする生物本能に基づいた反応だ。
 神の創造物を作り変えることに従事していた彼にとっては、もっとも皮肉のような結末だろう。
「私は、学生時代から生物変異の歴史と人工的に遺伝子を操作する手法を学んできたが、結局のところ。われわれはきみの言うところの神の作った業に抗えないし、本質的には生物の奴隷なのだ」
 卑屈な声だった。
「神など信じてはいないのだろう?」
「科学にのめり込めばのめり込むほど、われわれは神の存在を感じずにはいられない」
 きみにはわからないだろうがな、と言って男はわたしの肩周りに落ちた毛を、手で払い落とした。
「おまえは、なぜ自分の子に、そして彼女にあんなことをした」
「いずれ後悔するならやらなければよかったと?」
「おまえが後悔しているとは思っていないが。後悔しているのか?」
「私は逐一自分のミスを反省するほど暇でも賢い人間でもないのでね」
 無理やり暇を見つけてはわたしの所に通ってくるほどの時間はあるようだが、とわたしは心の中で毒づいた。
「好奇心と科学的探求のためならば自分の子すら犠牲にできると、最初は思っていた。あの頃はな。神に抗えると思っていた。科学への信仰と、宗教的な信仰心はまったく別物だと思い込んでいた」
 ボソボソとした声で彼は喋り続けた。
「私は神を作った。人の手で神の子を作ってやろうと思った。そうすることで、人類学の歴史が変わるとすら考えた。しかし、こんなことは星の歴史に汲み取られた単なる一環にすぎない。古代種の子を作ろうとしたことも、それが間違っていたことも、われわれはどこまでも人間であることを思い知らせるだけの、神がわれわれに与えた試練だった」
 後頭部の方から、淡々とした声を浴びせられ続けて、わたしは耳の中がざわざわと唸るのを感じた。彼はこんなにも信心深い男だったろうか?
 ひどく苦い、嫌な予感がする。
「なに、敬虔なきみにもわかりやすいよう、私の考えを噛み砕いて伝えただけさ。同じく敬虔なガスト博士も、生きていればきっとこんなふうにおっしゃっただろう」
 弁明するように彼は言った。
 そして、散髪が再開された。
 何かに縋りたくなったのではないか、とわたしは彼に尋ねたかった。
 若さゆえに尊大だった彼は、科学ではなく己の無力を思い知り、大いなる存在に運命を委ねたくなったのではないか。
 科学でも、神でも、宇宙でも、なんでも。
 できればこの場で振り向いて、男がどんな顔をして告白していたのか知りたかった。しかし、それは許されない。彼の心の奥底を覗き見ることは、誰にもできない。だからわたしは、黙って前を向き、彼に散髪されている。





20周年記念と、日頃お世話になっている方への誕生日に書いたもの。博士は神の存在なんて一笑に付しそうですが精神的に弱ってるときだけはその存在を信じざるをえないようになっててもいいな、とか…
はかせー大好きだはかせー