喪失





 硝煙と血の匂いが鼻腔を掠めて、宝条は扉の前で足を止めた。
 「必要な資料を取ってくる」と兵士に一言告げて、悪天候の外に古代種の母子を残して来たのだ。一応防寒設備は整っているが赤ん坊を長い間冷気に曝しておくわけにもいかず、早く戻ってくるに越したことはない。しかしこのまま資料を持って何もせずに帰るのはなんとなく勿体ない気がした。
 左側に簡素なベビーベッドと乳母車が置かれている。先程の幸せそうな光景が蘇り、宝条は眉を顰めて顔を背けた。そして目に入ったのは部屋の中央に横たわる血だらけの死体だった。
 ゆっくりとそれに近寄ってしゃがみ込み、瞼を持ち上げる。瞳孔が開いていることを確認すると、宝条は死体の手を取り明らかに冷たくなっている指先を自分の頬に当てた。手を離すと、支えを失った腕は呆気なく宝条の太腿の辺りにずり落ちていった。
 もう一度死体の手をとり、鈍い光を放つ薬指から指輪を抜いた。手の平に置いて見つめていると腹の底から煮え滾った、熱いものがぐるぐると渦を巻いた。あの古代種の女に対する嫉妬なのか、同じ罪を背負ったはずのこの男だけが罪から逃げ出すことに成功し、幸せな家庭を築いていることが腹立たしかったのか、もう判別できなくなっていた。
 宝条は指輪を固く握りしめ、その場で立ち上がって暖炉の中に捨てた。それでどうなるというわけではなかったが、あの女がこの死体と同じものを持っているということが、妬ましくてたまらなかった。
 再び死体の近くでしゃがんで床に手をついた。そのまま紫色になった唇に口づける。固く閉じた口を無理やり押し開けて何度か空気を送り込んでも胸が浅く上下するだけで、他に動きは無い。
 宝条はようやくはっきりと理解した。この男は死んだのだ。
 ここに来る前から明らかな殺意があったわけではなかった。古代種の女と結婚し、子供が産まれているだろうことは予測していた。すべて宝条の計算通りであった。
 しかし、いざ幸せそうな光景を目にすると、瞬時に頭の中で何かが切れたような感覚がした。
 なぜ自分には許されないことが彼にはまかり通っているのか。
 気が付くと宝条は引き鉄を引いていた。その後も何事も無かったように冷静になって部下に指示を出している自分が、内心恐ろしかった。
 科学的な知識もセンスも、全てにおいて宝条の上を行く男。そして、宝条のすべてを奪っていった男。
 自分には無いものを持っている彼が憎くもあったし、愛しくもあった。憎いから殺す。人間の本能に近い、ただそれだけのことだった。
 そうして得たものは達成感とは程遠い、予想外に大きな喪失感。
 厄介なこの矛盾をしばらく持て余していた宝条はようやく自分が泣いていることに気がついた。
 頬を滑り落ち、重力に従って落ちていく涙が死体の白衣に何個か染みを作る。
 宝条は死体を強く抱き締めた。
 泣き顔など随分と長い間他人の前で見せたことはなかったが、頭の片隅では「自分らしくないな」と思いながらも、この時だけは嗚咽を漏らした。