口紅




 神羅製作所の手狭な喫煙所は、昼間の間は、食後(あるいは仕事中の気分転換)の一服をしに押しかける社員でいっぱいだ。そんな所で吸っていても、窮屈なだけで何の足しにもならない。夜の12時数分前という、まさに日付が変わろうとしている時に、一仕事を終えた後で火をつける煙草は最高だ、と彼は思う。
 こんな時間になれば、さすがに煙草を吸いに来る社員もまばらだ。ヴィンセントは誰も居ない喫煙所のドアを開けて定位置に立つと、何の変哲もない1ギルライターで煙草に火をつけた。激務の束の間のこの瞬間が、彼は気に入っていた。空腹ではあったが、何も食べる気にはならなかった。そんなことよりも、できるだけすぐに気分を落ち着かせたかった。
 喫煙所のドアが開いて人が入ってきたのはフィルターぎりぎりまで吸い終わる直前だった。ヴィンセントは、なんとはなしにそちらを見遣った。白衣を着たままの宝条が、胸ポケットのシガレットケースを取り出しているところだった。
「君、まだ仕事してたんだな」
 と宝条は言った。
「そちらこそ」
 ヴィンセントは、吸い殻を灰皿に捨てて宝条に向き直った。
「実験が終わらなくてね」
「それはご苦労なことだ」
 ああ、と宝条は曖昧な返事をして、煙を吸った。そうして溜め息をつくように口から吐き出された白い煙は、風に靡いて消えていった。
「君が煙草を吸うとは思わなかった。そんなふうには見えないから」
「よく言われるよ」
「頻繁に吸うのか?」
「あまり」
 ふうん、と宝条は言って、再び煙を吸った。ヴィンセントは宝条が煙草を吸うのを、無表情に見つめていた。実に美味そうに見えた。その一本を、純粋に楽しんでいるようだった。
「あんたを見ていると、また吸いたくなる」
 とヴィンセントは言った。
「どういう意味だ?」
「タークスの規定で、本当は煙草禁止なんだが……、あんたが羨ましいよ」
「それは辛い」
 宝条は肩をすくめた。
「吸いたいなら、吸えばいい」
「ちょうど、最後の一本だった」
「そうか」
 ひと通り煙草を吸うと、宝条は吸い殻をぐりぐりと押し付ける。火種を完全に消してしまうのが彼の癖だった。強く押さえつけられたせいでフィルターがくの字にねじ曲がった。
「禁止されると、やりたくなる性分なのか? それとも、」
 人殺しでもしたか?と宝条は言った。どこか自虐的に口元を歪めたまま。
 ヴィンセントは何も答えなかった。一瞬驚いたように眉が釣り上がったが、すぐに元のポーカーフェイスに戻り、指先一つ動かすこともない。
「血と煙草の臭いが混ざって、凄い臭いだぞ」
「……煙草、もらえないか」
 とヴィンセントが投げやりに言った。宝条は鼻で笑った。嫌味な感じはなく、むしろ楽しんでいるような響きだった。
「いいよ」
 ところが宝条が胸ポケットから取り出したのはシガレットケースではなく、一本の口紅だった。ヴィンセントは呆気にとられた。間違えたという素振りすら見せない彼に。
「……宝条、それはなんだ」
「ルクレツィアから拝借してきた。煙草が欲しいなら、君がこれ塗ってくれたら、やるよ」
 ふざけている、と彼は思った。本当にふざけているのだろう。宝条はたまに突拍子もないことを思いついては、ヴィンセントに無茶ぶりを吹っかけるのだ。そこまでして欲しいわけがないしその手に乗ってやる義理はない。ヴィンセントは宝条を押しのけた。
「いらない。わたしは戻る」
「待ってくれよ」
 言葉通りに、ヴィンセントは立ち止まった。そして、数秒もしないうちにこの場に留まったことを後悔した。
 強い力でネクタイを引っ張られ、宝条の手が届く範囲に屈ませられる。動くなよ、と言って宝条は入念にヴィンセントの唇に口紅を塗った。口元の擽ったさを我慢しながら、ヴィンセントは、こんなことをして何が楽しいのだろうと思った。
「似合っているじゃないか」
 リップスティックが離れると、宝条はヴィンセントの顔をまじまじと見つめて、素直にそう言った。それは本心からの言葉なのだろう。怒りとも呆れともつかない気持ちで、ヴィンセントは黙っていた。薄暗いライトに照らされて、彼の唇は艶やかな光を放っていた。宝条は感心したように笑んで、ヴィンセントに煙草を差し出した。彼は黙ってそれを受け取り、火をつけた。
「赤い口紅は好きじゃない。……挑発的な女も好きじゃない。でも、なぜかな、君のそれは、元々の色が強調されてとても扇情的だよ」
 ヴィンセントは煙を吸いこんだ。
「怒ってるのか? そんな顔で煙草吸ってると、まるで挑発されている気分になる」
「黙っててくれ」
「とても、綺麗だ」
「頼むから」
 宝条は口を閉ざした。彼はそれ以降、本当に何も喋らなかったのでヴィンセントは黙って煙草を吸い続けた。葉がチリチリと燃えていく音だけが耳に残った。ヴィンセントは、ひどく、泣き出したい気持ちになった。どうしてこんな時に、こんな男と鉢合わせてしまったのだろうか。どうして彼は用意周到に赤い口紅なんてものを持っていたのだろうか。何もかもタイミングが悪かった。ヴィンセントは煙を深く吸い込んだ。どれだけ吸い込んで吐き出したところで、ひどく落ち込んだ気分の何が変わるというわけでもなかった。
「キス、してもいいか」
「嫌だ」
 どうせ断ってもするのだろうが、とヴィンセントは心の中で思った。宝条の強引さが、彼は嫌いだった。まるで掴みどころがないところも嫌いだったし、自虐的な薄笑いも嫌いだった。宝条は、再びヴィンセントのネクタイを引っ張って、口づけた。あたたかい舌が赤い唇の表面を軽く舐め、ヴィンセントの口内も舐めた。胸を押し返すことこそしなかったが、どうしようもなく彼らしくない優しい仕草が、ヴィンセントには不快に感じられた。胸が焼けつくような感覚だった。
「……宝条。わたしは、あんたの彼女じゃない」
 ヴィンセントは唾液に濡れた口元を手で拭った。手の甲に赤い色がついたが、かまわなかった。
「知ってる」と、宝条は悪びれもなく答えた。「そんなことをすると、口紅が頬につくぞ」
「最低だ、あんたは」
「今更だね」
 宝条はそう言って、腕時計を見た。12時がとっくに過ぎてしまっていた。
「もうこんな時間だ……タークスの事務所に戻らなくていいのか?」
「こんな顔で戻れるか」
「取引相手にやられた、と言えばいい」
 宝条はさらりとヴィンセントを横切って喫煙所から出て行った。生暖かい夜風が、口紅の滲んだヴィンセントの頬を撫ぜていった。灰皿の水に捨てた吸い殻の火種は燻ることなく消えてしまった。
「……あんたを、殺せたらいいのに」
 握りしめた手のひらは行き場を無くしたまま、腰の辺りをさまよった。