トリガー




 横たわる体に弾丸を撃ち込もうと銃を構える。
 こんな時に限って走馬灯のように頭の中を駆け巡る記憶がトリガーを引こうとする指の邪魔をする。あらゆる邪念を振り落とそうとして頭を横に振る。
 トリガーを引けばいい。それだけで彼のすべてが終わる。狂った妄言も。世界の破滅を引き起こす凶行も。愛する息子に対する歪んだ想いも。なつかしい日々の温かい思い出も。
 もう迷うことはない。抱く感情は憎しみの他に何もないのだ。私も、彼も。
 ゆっくりと息を吐き出し、力を込める。もう少しだ。次の瞬間に、この男は息絶えている。
 ふいに、掠れた男の声が聞こえた。それが再び私の邪魔をした。
 この男は卑怯だ。そんなにやさしい笑顔を見たら、トリガーが引けなくなってしまうではないか。
 君が存在していたことを、忘れ去ることができないではないか。
 私がこの上なく君を愛していたことを、認めざるをえなくなってしまうではないか。
「撃たないのか」
 もたもたしていると失血死してしまうぞ、君が最後に私に止めを刺すんじゃなかったのか、とそのひび割れた唇が言っているように見えた。
 なのに私の指は凍ってしまって動かない。だから私はこの男を殺せない。
 銃口が顔に向けられているというのにどうしてこうも落ち着いていられるのだろう、彼は。だがそれも今更だ。彼が取り乱しているところなどあまり見たことがない。
 そうしているうちに彼の白い指が凍りついたトリガーを動かした。目の前が真っ赤に染まった。耳に残った銃声が頭の中に染み込んでいく。私は依然として銃を構えたまま呆然としていた。
 ありのままを理解するのに何分もかかったような気がする。実際には数十秒程度の時間だったかもしれない。
 結局私は男を殺せなかった。殺したのは私の銃で、自決したのは男の方だ。不甲斐なさともどかしさが混ざった感情が浮かんできて、銃把を握り締める。
 いつだったか、約束したはずだ。あの薄暗い地下室で。いつか君をこの銃で殺し、救ってやると。
 赤い海に沈んでいく、異常なほど冷たくなった彼の白に包まれた手を取り、最後の口づけを落とした。
 彼はもう何も言わなかった。