悪い夢




 覆い被さった男にそっと唇を食まれその舌を静かに受け入れる。毎度のことだが決して強制されることも強く貪られることもない、口づけ。柔らかい殻を慎重に剥いていくような丁寧な、悪く言えば臆病な手が私の頬を撫ぜる。あまりに優しすぎるその仕草に反して背中がひどくざわついた。なぜだろうと思ったがあまり考えないことにした。行為に関係ない思考までが次々と浮かんでくるほどに彼とのセックスは生温かった。退屈とまでは言わないが。それは彼の性格も多少は起因しているのだろうし、あまりとやかく言わないようにしていた。
 ようやく彼は勃ち上がった性器を挿入した。2本の指でたっぷりと時間をかけて内部を解されたおかげで痛みはあまり感じなかったが、そんなことが私にはただもどかしいだけだった。わざと焦らしてこちらの反応を見るような意地の悪い相手も過去にはいたが、おそらく彼にそういった意図は無いだろうことは理解しているからだ。さっさと事を進めればいいのに、彼の愛撫における慎重さは最大限に気を遣っているようにも感じられた。根本まで受け入れたところで彼は一旦止まって私の顔を窺い見た。視線と視線がぶつかった。こんな時であってもどこまでも整った彼の真顔は目に毒だと思う。「動いていい」と視線で指図したつもりだったが暫く彼は腰を動かそうとしなかった。いったい何だというのだろう。地下に閉じ込めてからこの男は思考だけでなく動きも鈍くなったような気がする。年を取らないのだから真面目に身体を動かして欲しいものだ。そうしているうちに頭の中が快楽で埋め尽くされていき、私の思考までもが鈍くなってきた。熱に浮いた感じとじりじりと背中を伝ってくる快楽が合わさって夢でも見ているかのような心地よさが暫くの間続いていた。彼は目を閉じていたがやがて腰を前後し始めた。この瞬間が永遠に続けばいいと思ってしまった自分を少し恥じて、私は彼の律動に身体を任せることにした。やはり普通よりもいくらか控えめな動きだ。こちらに余計な負担を与えまいとしているようだった。これも毎度のことだが、そろそろ口出しすべきかもしれない。気を遣っているのはわかっている。それが鬱陶しいのだと。最中に仔細らしく語り合うような真似は今更したくないのでお互い言葉を交わさないのが暗黙のルールと化していたのだが。
「ヴィンセント……」
「なんだ」
 すぐに返事が返ってきた。彼は不満を露わにした声に気付いたらしく、やはり真顔でこちらを見た。
「何を気にしているのか知らないが勿体ぶるようなことはやめろ」
 彼は動きを止めて怪訝そうに首を傾げていたが(本当に鈍くなったものだ)、やっと理解したらしく私の首の付根に顔を埋めながら言った。
「それは無理だ」
「……なぜ?」
「わたしが箍を外してしまうと、おまえがどうなるかわからないから」
 溜め息が自然に出た。確かにこの男の強化された筋力ははかり知れないものがある。その気になれば私など赤子の手をひねるよりも容易く殺してしまうだろう。
「君は手加減しすぎなんだ。昔に比べて性急さがなくなったね」
 歳のせいかもしれないがな、と付け加えてみたせいか、彼の無表情に影が翳したような気がした。過ぎ去った年月を思って物悲しくなってしまったのだろうか。彼はそれきり何も言わなくなった。それでも緩やかなスピードが崩されることはなかった。そのぶんオーガズムに達するまでにはこれまでと同じくらいに怠惰な時間がかかるだろう、と予測せずにはいられなかった。これ以上会話を続けようがないので、仕方なく私は彼の舌を観察した。蠱惑的な赤い舌は飼い犬のように私の身体のあらゆる箇所を探った。何も感じないと言うほどではないが正直に言えば不快だった。そんなことをしている暇があったらさっさと出してしまえばいい。どうしてこの男はこれほどまでに私を丁重に扱うのか、ずっと不思議でならないのだ。私を憎むのも恨むのも至極当然のことだろう。いっそ憎しみに任せた容赦のなさで、私を――
 私はこの男にどうされたいのだろう。ふと、そんな疑問が頭の中に浮かんだ。文字通り箍を外された状態でなぶられて死にたいのか。肉食動物が生殺しの獲物を弄ぶように。冗談ではない。まだ成人してもいないセフィロスを残して死ぬわけにはいかないのだ。彼には余計なことを考えずに身を任せられるほどの動物的な荒々しさというものがなかった。私を扱う彼はどうしようもなく優しかった。優しさの裏に隠されたなにかを読み取ろうとしてしまう程度には。しかし結局のところ私にはわからなかった。わからないことが、もどかしかった。
 ヴィンセント。なぜきみはそんなに優しい。
 ヴィンセント。なぜきみは私を殺そうとしない。
   私を突く律動にやや力が加わった。限界が近いのかもしれない。彼の眉尻は下がり、目が伏せられていた。泣きだしそうな表情だと思った。
「ヴィンセント……無理はするな」
 そう言って彼の前髪を掻き上げた。長い前髪で隠れていた左目は、右目同様に何かに怯えたような視線で私を見るのだった。
「もっと激しくしていい」
「嫌だ……」
「どうして君はそうまでして理性的であろうとする? うんざりなんだよ……。獣になったっていいじゃないか……憎しみのままに、私を」
 私を。その先が続かずに言葉が途切れた。私は視線を逸らした。ややあって、唇は彼の口で塞がれ私の内部は放たれた精で熱くなった。

 覆い被さった彼のしなやかな筋肉を肌で感じ取りながら天井を見上げる。カーテンで覆われた室内の薄闇は時間の経過を感じさせなかった。
「君はやはり無理をしているよ。確かに私は年をとったが、君がそんなことで私に気を使うような義理はないだろう」
「おまえは、どうされたいんだ……。怒りの衝動に任せて見境がなくなったわたしに殺されたいのか」
「自分の身体を改造され恋をしていた相手も奪われ、まともに生きられなくした張本人にここまで優しくできるのは君ぐらいのものだ、と驚いているだけさ。なぶり殺してしまわないのが実に不思議だ」
 そうしてまた沈黙があった。
「殺したいほど憎んでいるのは本当だ。あんたの言うとおりだ。だが、私はあんたを殺すつもりはない」
「……どういうことだ?」
「やろうと思えばいつでも復讐はできるだろう。今でも……。しかし、無防備なおまえの身も心も破壊してしまったところで何が残るというんだ……? そんなことは無意味だ」
 と彼は言った。
「怖いんだ……どこかで制御できなくなっておまえを壊してしまうのではないかと」
 何かの間違いであってほしい、と私は思った。今更この男に何を罵られようが気にも留めないが、なぜそこまでして私に縋ることができるのか、いっそ不気味だった。私が思っているよりも、彼の頭の中は複雑なのかもしれない。
「理解できないな」
 と私は言った。
「わからなくてもいい」
 私は彼の背中に手をあてがった。盛り上がった肩甲骨をなぞりながらぼんやりとした視線は未だ天井に向かっていた。
 「これは自分自身に与えられるべき当然の罰だ」と彼が口にするのを私は過去に何度も聞かされていた。それを耳にする度に不快だった。われわれにとって彼は単なる傍観者だったし、それは今も変わらない。自分一人で罪を背負ったつもりになっているのが滑稽だった。そんな言葉を聞くと、私は私の背負った現実を再び認識させられた。罰を課されるのは彼ではなく、私なのだということを。
 壊して欲しいと思いながら私は永遠にそのことを言い出せないだろう。彼はこれからも臆病な腕で私を抱き続けるだろう。自分の頭の中が不意にぷっつりと途切れ、再び湧き出てきたものを噛み締めた。――まさしくこれは生殺しだ。彼は彼なりの方法で私を捕縛し、私はじわじわと底のない暗がりに追い詰められている。ほんとうに無意味だな。私は自嘲の息を漏らした。そして、むきだしになった二の腕が恐れに粟立つのをおぼえた。
 いっそ、深い怨恨に彩られたその手で何も考えられなくなるほどに破壊されてしまいたかった。しかし、彼が途方もない時間をかけてそれを実行するとき、われわれは果たしてどこまで下降してしまっているだろうか。
 漠然とした恐怖に付きまとわれた私を再び現実に引き戻す腕は確かな体温を持っていた。ヴィンセントが私の冷えきった身体を抱き締め、シーツを手繰り寄せていた。




博士に「わたしを壊して」と言わせてみたかった