You Are Not Here




 ガスト博士がいない。
 周りの研究スタッフに聞こえないように、セフィロスは呟いた。よくわからない機械とボイラーの音が少年の鼓膜をふるわせる中、スタッフたちの話し声は控えめで、まばらだった。ごく小さな声でも聞こえてしまいそうだった。
 しかしセフィロスの声を聞き取る者は誰もいなかった。皆、統計上の数値とレポートにばかり着眼しており、少年の心に目を向ける大人は誰もいなかった。セフィロスはそれをおかしいと思わなかった。自分はそういう存在なのだ。「ふつう」と違うから、「けんさ」されているだけなのだ。
 疑問には思わなかったが、孤独だった。もっとも、「孤独」という言葉を知るには、少年は幼すぎたが。ガストがいなくなってからは、殊にそうだ。少年にとって、ガストという科学者から教えられることがすべてだった。彼が教育係であり、親代わりでもあった。だから、彼がいなくなると少年は孤独だった。その空虚感を、セフィロスは「さみしい」という言葉でしか表現できなかった。
 出張、と言って1週間ほどいなくなるのはざらだった。その間、セフィロスはガストから与えられた本やパズルで、空虚を埋めるように過ごすのが常だった。しかし今回はたまたま、与えられたものは何もなかった。「少しここを空けますね」と、いつもどおりの笑顔で少年を抱きしめ、ガストは出ていった。きちんと整えられた髪から、整髪料の匂いがした。
 彼がいなくなって、1ヶ月が経とうとしていた。彼がくれた本を読み返す度、心に空いた穴が広がっていった。少年はそのうち、本を読むのをやめた。
 ガスト博士がいない。
 もう一度、セフィロスは呟いた。誰もそれに反応を返す者はいないかのように思われた。しかし呼応するようにドアが開いて、スタッフたちの目がいっせいにそこに向けられた。
 入ってきたのは、痩身の科学者だった。銀色の少年が、黒い瞳の視界に入った。科学者は無言で少年の横を通り過ぎた。
 セフィロスは、科学者の方を見ることはなかった。黙ってリノリウムの床の一点を見つめていた。その男だけは、セフィロスがはっきりと「きらい」と表現することができるただ一人の人間だった。なぜなのかは、セフィロス自身にもよくわからなかった。男がいつも嫌味で、かつ皮肉げな態度で少年に関わるから、というのも一つの理由かもしれない。
 男は、スタッフと事務的な会話を交わした後、長椅子に座る少年を見た。なんとはなしに顔を上げたセフィロスは、男と目が合った。少しの間、彼らはそのままだったが、男がこちらに近づいてくるのがわかると、セフィロスは慌てて目を逸らした。
 軽やかさとは違う、必要以上に重苦しくもない、乾いた靴音がこちらに近づいてくる。少年は再び顔を俯けた。片手を白衣のポケットに入れて平然と立つ男の影が、少年を覆った。
「最近食べなくなったと聞いたが」
 セフィロスは返事をしなかった。男はかまわずに続けた。
「我々に迷惑をかけるな。これから育っていこうとする子どもが、食事をしなくなっては身体にどんな変調を来すか……」
 身体、ではなく研究、なのだろう、とセフィロスは反論したくなった。
 男はそこで黙り込んだ。少年を見下ろしたまま、時が止まったかのように、沈黙が訪れた。
 どこか気まずい瞬間だった。ここから立ち去りたいと、セフィロスは強く思ったが、逃げ出す場所などなかった。セキュリティ・システムが行き届いている施設の中で、少年が行き来できる場所は限られている。
 セフィロスは頑なに沈黙を守った。ようやく、男が口を開いた。
「まだ、あの男のことを気にしているのか」
 幾分低い声だった。何を怒っているのだろう、とセフィロスは思った。
「捨てられたんだよ、おまえは」男の声音は変わらなかった。「だからおまえも、早々に記憶から捨て去るんだな」
 空洞になった心の穴から、沸騰しそうな想いがにじみ出てきていた。セフィロスは瞬時に顔を上げ、男をねめつけた。いつもの感覚とは明らかに違っていた。嫌悪感と憤りが一緒になって、男に向けられているのだ。
「ちがう」
 ほう。何がちがうんだ。男は、少年に問うた。相変わらずの、冷徹な瞳だった。
 ちがう。ちがう。ガスト博士は、ぼくを置いて行ったりなんかしない。精一杯の言葉で、少年は反論した。碧色の瞳には、次第に涙が溜まってきていた。
 男は嗤った。喉をひきつらせるような、この男特有の嗤い声だった。皮肉的で、どこか自嘲的な響きを含有していた。
「まあいいさ。そのうち、おまえも気づく時が来るだろう」
 おまえは馬鹿ではないからな。そう言い残して、男はラボを出ていった。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。少年は、声もなく、泣いた。



 かわいそうな子だ。未だにあの男のことを信じて待っているとは。科学者は廊下を歩きながら思った。――どっちが?
 頭のいいセフィロスは、いつしか割り切れる時が来るだろう。――だが、私は?
 思わず立ち止まる。あの男はジェノバに見切りをつけ、ほんとうの古代種と共に逃げるつもりなのだ。おそらくそれは、紛れもない事実だ。
 それでは、私があの男の下で研究していた期間とは、なんだったのか。
 戻ってきてほしいと願うのは、私も同じなのか。どこまでもあの男に縛られ続けているのは――。
 チャイムが鳴った。男はおろかな思考を一蹴し、資料室に入っていった。