夕暮れ




 宝条は会社の玄関に立ち、頭上に広がる空を見上げた。
 このところ連日降り続いていた雨が、今日は終日止んでいたように思う。降り出しそうな気配もない。
 今のうちに家に帰れば濡れずに済むだろう。天気予報は見ていなかったが傘を持ってこなくて正解だった。
 そう思って歩き出そうとした矢先に、聴き慣れた声が宝条を呼び止めた。
「君か」
 顔だけ振り返っていた宝条は、足を止めてタークスの制服を纏った男が出てくるのを待った。
「あんたは白いから、すぐわかるな」
 黒い傘を手にしたヴィンセントは、白衣の男の横に近づいてから言った。
「君は……背広は着てないのか」
 普通の社員と違って特殊な任務もこなさければならないタークスは、夏のうちは背広を着込むことを強要されない。だから、このところヴィンセントは半袖のワイシャツに黒いスラックスという格好でいることが多い。
 毎年そんな姿を見る度に、ヴィンセントのヴィンセントたらしめる要素が一つ減ったような気がして、宝条はどこか物足りない気分になる。だがさしたることでもないので、そんな気持ちになることは毎年口には出さないでいる。そのうちに慣れて、なんでもないことになるからだ。
 秋頃になってちゃんと背広を着るようになると、安心したような、それでいてもの寂しい気分になる。しかし、口には出さない。
 宝条は、そんなことに季節の移り変わりを感じる。
 日中は少し動いただけで汗が噴き出すような暑さだったというのに、嘘のように気温が下がっていた。それでも過ごしやすいというわけではなく、纏わり付く空気は未だ暑さを含んでいる。
「もう、梅雨明けらしいな」
 二人で歩いていると、ぽつりと、ヴィンセントが言った。なるほど真上の空には入道雲が出ている。
 もうこれともおさらばだ、と傘を掲げながら更にヴィンセントが続けた。
「そうだな」
 宝条は生返事をして、駅までの道を歩いていく。風が通り抜けて緑色の木々を揺らす、涼しげなその音が仕事帰りの疲れた身体には心地良かった。
 会社から駅を繋ぐ一番近い道のりは10分程度の距離だった。夕方で賑わう大通りを真っ直ぐ歩くと、それだけで着いてしまう。それから各々別のホームに行って、すぐに来た電車に乗り込む。それだけの通勤だ。
 宝条とヴィンセントは、まず一緒の時間帯に帰るということはない。会社で顔を合わせることがあっても役職も仕事内容も大幅に違うので、いつもスケジュールが合わない。
 だから、こういった時間は大切にするべきだ。ほとんど無意識にそう思っても、彼らはそれを口に出すことはないし、仕事が終われば早く帰って休みたいというのが働く人間の当然の欲求である。
 しかし宝条は普段よりずっと速度を落として歩いている。歩幅の広いヴィンセントも、それに合わせて歩いている。足を踏み出しながら、宝条は黙って考えを巡らせていた。
 通りを途中で折れれば飲み屋が何軒か続いている。更にその先の道に折れれば、人気の少ない細い路地がある。
 宝条は道を曲がった。それに気付いたヴィンセントも、何も言わずに同じ道に逸れた。
 寂れたビル続きの道の向こうから太陽が遠慮がちに覗いている。淡いオレンジ色の陽光が、無機質で直線的なビル群の影に柔らかみを与え、コンクリートに溶けこませている。細い路地にはずっと先に小さな人影が見えるだけで、その他には誰一人見当たらなかった。適当なところまで歩を進めると、大通りや飲み屋の賑わいはずっと遠くに聞こえるのみになって、硬く乾いた彼らの靴音がただただ路地の中で響いている。
 宝条は足を止めた。同時にヴィンセントの足も止まる。
 ヴィンセントは、自分の先を歩いていた男が振り返るのを待った。陽光に照らされた白衣だけがきらきらと眩しく、その光に包まれた科学者はまったくの別人のように見える。そんな綺麗な光景は、宝条という歪んだ男にはおおよそ似合わなかった。目を細めている間に、宝条はゆっくりと振り返った。振り返った彼の無愛想な顔はやはりいつもの彼でしかなかったので、そのことにヴィンセントは安堵した。
 数分の間、二人は無言だった。互いに目を合わせたまま、立ち尽くしていた。空からはだんだんとオレンジ色が消えていき、それに従って、相手を見つめる科学者の表情には心なしか、次第に悲しげな色が滲んでいった。
「宝条。……どうしたんだ」
「……いや」
 控えめな動きで、オレンジ色がかった袖がこちらに伸ばされたので、ヴィンセントもなんとなく同じように腕を伸ばす。指と指が絡まり、宝条はもう一方の手でヴィンセントの身体を引き寄せた。
「君が、黄昏とともに消えてしまうような気がした」

 夏の夕暮れは、長いようでいて、短い。
 待っていなくともそのうちに陽が落ちて、まとわりつくような暗闇が街を包むだろう。
「宝条」
 もはや密着していても暑苦しいなどと思えないほどに気温は下がっていた。それでも、ヴィンセントは宝条の身体を離した。
 ここで黄昏に飲み込まれたら、何かが変わってしまう気がしていたからだ。そして、その予感はヴィンセントをひどく不安にさせた。
「帰ろう」
 ためらうようにヴィンセントを見上げていた宝条は、やがて静かに頷いた。
 そうして二人で、薄明るい路地を後にした。