宝条がそれに気付いたのは、二人きりで室内の掃除をしていた時のことだった。
 既に粗方の整理整頓は終わり、他にやるべきことなど残っておらず宝条は手持ち無沙汰になっていたのだが、ヴィンセントの方は個人的に気が済まないところがあるらしく、箱に入ったクリップを一つ一つ綺麗に並べている。
つくづく几帳面な男だ、宝条は立ったままのヴィンセントと向かい合わせに頬杖をつきながら思った。取るに足らないものでさえ整然と並んでいなければ満足できないらしい。そんなものにすら情けをかける心があるのに、その仕草はどこまでも機械的で、ますます滑稽に思えた。
 宝条は、たくさんのクリップを並べ続ける端正な指の動きをぼんやりと眺め、次に目の前のタークスの胸元に初めて目をやった。飛び込んできたのは赤色であった。宝条は眉を顰め、目を瞬かせた。
 くすんだ赤色のネクタイがヴィンセントの胸元に収まっている。ヴィンセントが微動するに伴い、それは宝条の視界で目立たない程度に揺れた。彼は一度一つの事に没頭すると周りが見えなくなる性質だった。今までネクタイに目が行かなかったのは、各々の作業に集中していたからであり、その時ヴィンセントがまだ黒い背広を羽織っていたのでその色に気づきにくかったのだ。
「赤いネクタイとは、珍しい」
 ネクタイが、ではない。ヴィンセントがそんな色の物品を身につけていることが、だ。性格上のことか、それとも彼の職業柄か、ヴィンセントはプライベートでさえ目立った色の物品を避けているように見えた。
「黒以外のネクタイなんてつけてて、許されるのか?」
 その問いには、どうして君ともあろうものが、赤なんて色を選んだのか、という疑問がありありと含まれていた。ヴィンセントは答えなかった。黙々と、ひたすらクリップを動かし続けている。目の前の嫌味な男を、作業に集中することで視界に入れないようにしていた。
 だんまりか。宝条は腕組みをし、椅子の背に寄りかかった。そのはずみで灰色の背もたれがしなり、軋んだ音をたてた。
 確かに、ヴィンセントのように優秀な実績を残した者なら、少しくらい制服を着崩していたとしても認められるのかもしれない。総務部調査課という部署は、厳格なようで、結局は結果ありきなのだ。入社テストで最高得点を記録したのだったか。世間的にはあまり褒められるようなものではないが、その仕事ぶりの正確さから、他の同業者たちからも一目おかれていると聞く。
 課で規定された服装をあえて崩すのは、自分の優秀さを自負しているということではないのか。常に周りから浮くことを厭い、謙虚でいるようにみえて、この男は。
 表情には出さなかったが、宝条は、心の奥底で微笑を漏らした。
 赤という色は、存外、ヴィンセントによく似合っている。

 なぜ指定された色のネクタイを着用せずに赤いネクタイなどを締めているのかといえば、「気分転換」と言うに他ならない。ただの気まぐれなのだ。
 何の気なしに、とある雑誌を見て、そこにあった写真の男が赤いネクタイをしていた。だから自分も同じことをしてみようかという気分になった。ただそれだけの理由だった。他の社員が思っているほど、タークスは制服に関して厳格ではない。基本は黒というだけで、社内にいる間は、何色のネクタイを締めていようが咎められることはない。
 宝条は懐疑的で、ひねくれた男だ。そのうちに、あることないこと推測されて、厭味ったらしく言われるに違いない。自分のオフィスではなし、本当は研究室の状態などどうだっていいのだ。そこそこに掃除を手伝って、さっさと立ち去ればよかったのに、無意味にここに滞在する理由を探している自分が、たまらなく不快だった。手伝いを頼まれた時点で断ればよかった、と今になってヴィンセントは歯噛みする。
 常々自分の所有物にするように、ヴィンセントは宝条のものと思われるクリップの山を、無感情な動きで並べ続けている。ニ・三言、言われたことは無視していた。下手に答えればくだらない言い争いを招くことになるからだ。
 最初、机に頬杖をついていた宝条はつい先程から、気だるげな表情で椅子にふんぞり返っている。
 クリップが残りあと数個というところで、宝条はにわかに身を乗り出し、ヴィンセントのネクタイを指でつまみ、軽く引っ張った――というよりは持ち上げるような動きであった。さすがにヴィンセントの手は止まり、何も言わずに顔が上がった。
 反抗的な目だ、と宝条は思った。
「どうして君が、いつもと違うのを締めてるのかと思ってね」
 だからさっきから訊いてるじゃないか、君が返事をしないから、邪魔するに至ったまでだ。宝条はネクタイの端を持ち上げたまま、苦笑を交じえて言った。
「別に……」
 ヴィンセントは、渋々といった声音で、ようやく返事をした。クリップは残り4個になっていた。並べ終えたところで、自分はどうすればいいのだろう。この男との無意味な攻防に、時間を取られなければならないのか。自分とて与えられた仕事が無いわけではない。それならば、最初から、宝条の頼み事など聞き入れなければよかったわけだ。
 思考はループする。何を考えても結局は同じ結論なのだ。今更どうすることもできまい。なぜ宝条の言うことに安々と乗ってしまったのか。ヴィンセントの論点はそこに移っていった。
 突然、びん、という張り詰めた感じと、首の背面に圧迫感がして、ヴィンセントは脊髄反射のように再び顔を上げた。見るまでもなく、白い腕が赤いネクタイを、強い力で引っ張っていた。
 ヴィンセントは、目の前の男を睨みつけるまでもなく、あくまで平静を装った。憤りの反応を返してしまえばこちらの負けなのだ。しかしその裏で、そんな子供じみた攻防を演じている自分たちがひどく馬鹿らしく思えてくるのだった。素直に嫌悪の表情を示せば済むことなのではないか……。
 そういった思考を巡らせながら、暫くの間、彼らは不自然に黙り込んでいた。ヴィンセントは、無意識に、宝条の黒黒とした瞳から目を離せずにいた。彼はこの瞳で見つめられる度、妙な気持ちになった。底なしの海という表現がぴったりなほど黒い虹彩に当人の感情がはっきりと映るのはどんな時なのだろう、とヴィンセントは考える。彼は総務部調査課の精鋭として申し分ないほどの洞察力を持っているが、宝条の考えていることだけは、いつも読み取ることができなかった。読み取れたとしても、それはおそらく自分の理解を超えた感情なのだろう。彼らは、様々に話をするうえで相手の考えが食い違っていると感じることがしばしばあった。宝条の価値観は、いわゆる常識的な倫理観からは多少なれど逸脱した部分があった。当人はおそらく自分の価値観が正しくないということを理解していながら、あくまで自分の主張は変えないのだ。宝条の目つきは単に感情が読み取れないというだけではなく、多くの部分で異なる考えを持っているからこそ、ヴィンセントには余計にわからなかった。
 ネクタイを持つ手に力がこめられた。不意をつかれたように、ヴィンセントは力学の働く方向へ純粋に引っ張られる。「ちょ、……」とヴィンセントは思わず声を上げた。



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